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自由を与えて全て好きにやらせるなどというのは、
無限の砂漠に身一つで放り出されるようなものだ。

それでも子供たちは自らの力で砂を掘り、
自らの好みを発掘する。

けれど、それがさらに深化することは、完全なる自由である限りあり得ない。
子供たちはスコップしか知らないからだ。
日々上がり続ける世界の純度に対して、スコップ一つでたどり着けるのはほんの僅か。
他人を含め、スコップ以外をいち早く理解し、それが目的に沿っていた僅かな人間だ。

そして人類社会は、僅かな人間だけではもはや運営など叶わない。
これはその僅かに当てはまらない人間のための言葉。

真に自由というならば、自由を与えた者自身が、何を提供できるか
教えなければならない。

明文化までする必要はない、行動で示してもいい。
ただ、子供が掘っているところの先に、どれほど広い世界があるか教えるだけだ。

それは人の考えを縛るものではない。
いずれ破壊するべき型だ。
見えないものを破壊することは、誰にもできない。
だから、教える。

理屈は子供の理想を叶えるための単なる道具である。
掘るのはいつでも子ども自身だ。

世界全てが道具に見える人間は、

何一つ持たない人間が最強ならば、人類は原始時代から凋落を続けている。

どれだけ勉強しようが、どれだけ強くなろうが。

人はいずれ、その先に進めなくなる。

……それでも。