露がこつりと、石橋を穿った。

 後に残された二つ三つの水滴たちは、微かな揺れに合わせて葉上を滑り、重なり合って一つになる。やがて強まる揺れに耐えかね、勢いのままに葉を飛び出すと、
石橋の上で淡く輝く水たまりの一つになった。
 そこへ揺れの主が葉を押しのけ、水たまりを無自覚に踏み荒らしていく。二つの光る眼が薄闇を切り裂き、朝もやの向こうを照らしている。石橋に刻まれた溝をなぞってはゴトゴト前へ進んでいく。
「……木が伸びてきたな。もうそんな季節か……」
 ふいに、主――路面電車の中から、声が聞こえた。フロントガラスの向こうに、矍鑠たる老爺の姿が見える。ラベンダー色のシャツと黒のスラックス、黒のローファーに紺の制帽といった出で立ちで、石橋を眺めながらも運転レバーをしっかり握っている。ぱき、ぱきと枝を折る音が運転席に届いた。夏の影で蝉が鳴いている。
「……うん?」
 その声と共に、レバーがゆっくり押し込まれた。

冷たく、暗く、深い霧の中。ごと、ごとと何かが動いていた。
 それは二つの光る眼を持ち、早朝の薄闇を切り裂いては、石橋の上に彫られた溝をなぞり、ゆっくり前へと進んでいる。
「……うん?」
 ふいに、それは動きを止めた。横腹に備え付けられた引き違いの戸が開く。やがてそこから、車掌の制服に身を包んだ一人の老爺が出て来て、石橋の上に降り立った。霧で見えない石橋の欄干へと近づく。
「この辺か。よしよし、居たな」
 欄干にたどり着いた老爺の視線は、下に向いていた。
 そこで俯いて座り込んでいたのは、ともすれば男児にも見えるほどに小さい、白衣を着た人間が一人。
 その側にあるバッグの中身は投げ出されており、中からは書類が二、三枚覗いていた。
 
 『梁先 茶樹』。

 書類の名前欄には、そう書かれていた。


 小さく燃え盛る火が、ポットにかかる。中の液体が少しずつ空気と混じり、辺りを芳香で満たしている。換気扇から外へ流れ、早朝の空気に彩りを添えていた。
「……ん」
「おっ、起きたか。丁度いい」
 

 
 

「――それで、あんちゃんはこんな橋端で倒れてたってのかい! はははは、若いねえ!」
「ええ……本当に、返す言葉もなく……」
 霧の中で、『路面電車』に乗った二人の声がこだまする。正確には老爺一人の声だけで、顔を赤らめて縮こまっている茶樹の声は比べるべくもなく小さい。
 電車が時折かすかに揺れる。
「恥じることはないぞ、あんちゃん。この長い石橋の半分までいってたんだから大したもんさ。向こうに行っても誇れることだぞ」
「そうなんですか? てっきり、向こうの――ナカリアでは、この程度はよくある事だと思っていましたが」
「はじめは皆大人しいな。向こうに行ってから弾けるんだ。だからこそあんちゃんは凄い。俺は気に入ったよ」
「は、はあ。ありがとうございます」
 圧され気味になりながら、乗客席の茶樹は答える。それは齢七十ほどに見えるのに若々しい話し方をする老爺のせいかもしれないし、まくし立てるようによく通る声で話す老爺のせいかもしれない。茶樹は自分でもどちらか分からなかった。

「だから、向こうでお薦めの料理店を教えてやろう。メニューは全部シェフの気まぐれ、調理法も気分次第。だけどきっちり旨くて、どんな料理もテイクアウトまで出来ちまう。どうだ、発明都市の料理店って感じだろ?」
「テイク……面白そうですね。店名は何でしょうか?」
 さっきの自分を思い出しながら、茶樹はメモを取り出した。『初めてその場所に行くなら、まずは自分の足で向かってみたい』。そんな気概を空腹と疲労にへし折られ、半ば諦め気分で欄干にへたり込んでいた自分。小さく頭を振ってその記憶を追いやる。
「『空上丁』だよ。五番地にあるから行ってみるといい。そのまま住んじまうのもお薦めだ。何せ、あそこは都市で一番致死率が低いからな!」
「不穏な単語が」
「とはいえ事実だ。あんちゃんも最低限自衛は出来るだろうが……気をつけろよ」
 霧は一層深くなり、路面電車を覆い隠す。登り始めた日差しはまた翳り、今や影すら作れない。運転席の老爺は、それでもじっと前を見つめていた。
 ペンの音だけが車内に満ちる。
「……肝に銘じておきます」
「ははは、良い返事だ。さて、そろそろか」
 老爺は運転席のレバーをぐいと押した。路面電車の速度が少しずつ落ち、やがて止まる。
「ここらが限界だな」
「ええ。本当に助かりました。ご飯、美味しかったです」
 茶樹はすっくと立ち上がり、外に繋がる扉に手をかけた。開いた隙間から霧が流れ込む。不自然なほどに早く車内の視界が霞んでいく。視界が白に塗り潰される。構わず一歩、踏み出した。
「気にするこたあない。つい買い込みすぎて余ってたんだ。むしろあんちゃんが食ってくれて助かったくらいさ」
「それでも必要です。……会えなくなるかも、しれませんから」
 ざり、ざり、と二三歩進み、ふいに立ち止まる。そして片腕を掲げ、空を指差す。茶樹を見送っていた老爺はそのまま空を見上げた。何も見えない。何も聞こえない。けれど、それはすぐに分かった。
「……ほお。流れている」
 それは頬を撫ぜる気圧の変化から、髪を揺らす風となり、すぐに服をはためかす嵐となる。周囲の空気がすべて茶樹に、その指先に集められる。伴って霧が巻き取られ、徐々にその向こうの形を曝け出す。
 刈り揃えられた植物。石橋の裏まで空いた穴。橋の向こうの関所。
 黄色い提灯が並ぶ商店街。半透明の板が浮かんだ階段。壁に一体化した巨大な歯車。
 公園に並ぶ赤色の鉄塔。大小様々のコードが伸びる時計――それら全てを抱く、巨大な都市。
奇妙な能力と、見た目は別

 ――ナカリア。
 霞の向こうから現れたそれは、紫がかった朝日を白く反射させていた。

「それじゃあ、行ってきます!」
「おう! 行ってこい!」

 穴の縁沿いに走り出し、関所まで一直線に駆けていく。10m、5m、そして一歩を踏み入れる。そこはもう外ではない。端も底も見えない谷の向こう側、ナカリアの第一階層、四番地三十二番通り。

「ストップ」

 その直前、関所の壁沿いで茶樹は呼び止められた。見れば関所の壁が削り取られ、彫刻を施され、家電や調理器具やトレーニング設備が運び込まれ、本格的な詰所になっている。その窓口で誰かが手招いている。
 長い金色の、癖のついた髪。白のシャツに黒のベスト、つばの広いポークパイハットと、宝石のような青色の瞳。長いまつ毛、筋の通った鼻、低く穏やかな声を奏でる唇。それは奥の彫刻から抜け出てきたかと見紛うような、そんな少女だった。

「悪いけど、今は入街禁止よ。そのへんでゆっくり研究でもしてなさいな」
「えっ? 変だな、そんな話聞いてないよ」
「そりゃまあ、普通は……って、その言い回し。もしかして新人?」

 そう言ってから、少女は「しまった」と言わんばかりに口に手を当てた。

「ごめんなさい。気を悪くしたなら謝るわ」
「いいや、本当に新人だから構わないよ。それより何があったんだい」

 そう聞くと、彼女は一瞬目を丸くしてから、辺りをさっと一瞥した。そうして軽く帽子をつまみ、逆の手でまた茶樹を手招く。

「……えーっと。もうちょっとこっちに来たら分かるわ」

 それに従い、なんの気無しに一歩を踏み出す。途端に空気が渦巻いた。何もない場所に、突然それが現れたとすら思える感覚。それが早すぎるがゆえに起きた錯覚と気づいた頃、飛び散った石畳が茶樹の背中を強かに打ち据えた。

「っ〜!? なっ……何だ、今の!」
「あれが今、この街を這い回ってるのよ。普段なら問題ないけど、この時間とあの速さってことで、随分手こずってるみたい」
「手こずる、なのかい? 打つ手なしじゃなく」
「実質無いようなものだけど。掃除屋が出るらしいわよ」

「どうしたの」
「何でもないよ。一石二鳥だなってさ」

「いやいやいや。何してるの? 勝算があるの?」
「無いよ。まだ情報が足りない」
「それを集める前に死ぬから止めてるって説明が必要なの?」
「けれどこのままじゃ間に合わない。分かるだろ」

「それはまあ、そうだけど……」
「…本当に分かるのかい」
「え? あっ」

「あー……よし」

「これは」
「地図と受信器。発信源はあの蛇よ。これあげるし、見逃すから、だからその、黙っててくれるかしら。私のこと」
「気にしてるの?」
「あまり言いふらされると昇進するわ」
「いいことじゃないか」
「まだこの仕事を続けたいの。まったく、新人に油断するなんて私もまだまだね」

「終わったら返しに来てね。本当はそれ、掃除屋に配るものだから」
「じゃあ返さなくていいかな」
「どこをどう斜めに読んだの? ……いや、違うか。ああ、道理で」

「でも返しに来てよ。どのみち終わったら全員回収なのよ、それ」
「世知辛いね」
「別にコスト節約じゃないわ。終わったら無意味になるから処分しますってこと」
「地図は使えそうだけど」
「意味無いわよ、ほら」

「あれだけ派手に壊されたら、地図なんて意味ないわ。