崩れ落ちそうな空だな、と思った頃には、もう降り出していた。
 ぽつ、ぽつという音を皮切りに、静かに降り注ぐ夏の雨。
 いつも賑やかなこの森から、雨は他の音を奪っていく。それはまるで、森の名と同じ、魔法のようだった。
 
 雨は好きだ。森と合わさると、楽団もかくやという音を奏でる。こんなにも調和した自然を身近に感じられるのは、やっぱ森に住む者の特権ってやつだろう。本当、家を建ててくれたアイツには感謝しかない。
 それに何より、雨が降るとこの森、魔法の森の瘴気は薄くなる。私とて未だ人間、瘴気に相当慣れたとはいえ、無いほうが楽なのは間違いない。
 魔法使いとしてどうなんだとは思うが、今のところ人間をやめるつもりはないのでこれでいいのだ。私は大きく伸びをし息を吸って、浄化された新鮮な空気を肺いっぱいに送り込んだ。
 
 ――ふう。さて、何をするかな……
 
 そんな思考を巡らせようとすると、戸が叩かれる音三つ。
 はいはーい、と返事をして玄関に向かいながら、違和感を感じた。
 今、外は雨。周りは魔法の森。そしてここは我が家、霧雨魔法店だ。
 店とついてはいるものの、客が来たことは数える程度しかない。そして大体私は研究しているか遊びに行ってるか採集してるかなので、客の悩みを解決できたのはほんの一部だけだ。人間にも妖怪にも、店の評判はお世辞にもいいとは言えないはずである。
 そんなところを、雨の日に態々訪ねてくるだって?一体どんな物好きなんだ。あるいはどんな厄介者なのか。この霧雨魔理沙様の眼鏡にかなう奴だったらいいのだが。
 
 「どっちらっさまーっと」
 
 玄関のドアを開く。
 
 「匿え」
 「……」
 
 そこにいたのは、ずぶ濡れになった妖怪だった。
 身長は私と同じくらい。真っ黒で感情を見通せない目。黒と白に前髪だけが赤という幻想郷でも珍しい髪に、小さく二本の角が見える。襟やスカート部分に矢印があしらわれたワンピースを腰で留めて、胸元には逆さになった小さなリボンをつけている。そしてその全てが雨に蹂躙されていた。
 
 知らないはずがない。
 
 逃亡者、鬼人正邪。幻想郷きってのお尋ね者だ。
 
 「匿え」
 「――えー…。」
 
 どうやら、厄介というか、厄がそのままやって来たようで。
 
 
 
 
 
 朝から空を半分近くも支配していた入道雲は、昼を経てついに雨雲へと変わった。
 稲光を伴った夕立が、木に、草に、人々に水の恵みを与える。ここ八日ほどずっと晴れだったから、喜びもひとしおというものだろう。
 だからその喜びの十分の一でも、私に分けてくれたらいいのだが。
 
 「漢方薬でも入ってるのか、この茶」
 
 喜びを憂いに変えた張本人が、私の淹れた茶を前にして口を開いた。
 彼女の名は鬼人正邪。とある異変で出会った、ただの天邪鬼だ。
 なんでも会った時から私を気に入っていたらしく、時折こうやって私の家に来る。最初は私も敬遠していたのだが、話してみると意外と面白いやつだった。
 口は悪いが努力家で、野心が大きく、諦めが悪い。私と気が合わないわけがないだろう。今となっては大事な友人の一人だ。
 そんな奴が家に来たのに、何が憂いなのかって?
 ……別に、こいつは悪くない。ただ、こいつはやはり天邪鬼だったというだけだ。それに気づいたのは、もっと後のことだった。
 
 「特製ハーブティーだ。苦味が体に優しいらしい」
 「おい、らしいって何だ」
 「お前も実験体だって意味だ」
 
 ちなみに私は、ハーブティーなんて作ったことがない。これはこいつのために作った、一級品のイヤガラセ茶である。
 だが誤解しないでいただきたい。私に悪意は一切ないのだ。どういうことなのか気になるなら、そこの天邪鬼の顔を見てもらいたい。
 
 そのとびっきりの笑顔を。
 
 
 もうわかっただろう。
 こいつは、されたら嫌がるようなことを喜ぶ性質なのだ。
 
 
 それだけを聞くと、彼女はいわゆる嗜虐性愛者なのかと思う方もいるかもしれない。しかしそれとも違う。
 言い表しづらいが、『』
 
 ……この茶、渋っ。
 
 
 
 「そんな苦い顔するもん、人に出すなよ」
 「渋い顔だぜ。玄関で出迎えた時と同じ」
 「その時はもっと苦虫を噛み殺したような顔してたぞ」
 「それ解ってて入ろうとするか、普通」
 「追い出そうとしない奴が悪い」
 
 正邪がお茶を飲む。私と違って彼女は、眉を僅かに顰めた程度だった。
 何か負けた気分だな。次は妖怪だけ苦味を感じるキノコとか入れてみるか。あいつはマゾではないが、陰湿な嫌がらせほど喜ぶとかいう訳の分からん体質だからな。それくらいはコミュニケーションの一種として済ませるだろう。
 多分。
 
 「んで?雨だからって、ただ雨宿りに来たわけじゃないよな、お前は」
 「おいおい、つれないこと言うなよ。折角『親友』が来たんだ、もう少し意味なく話してもいいだろう」
 「ああそうだな、『親友』だな。だから厳しく言うんだぜ」
 「くくっ。やっぱお前が一番大嫌いだよ」
 「奇遇だな、私もだ。お前を助けて世界が救えるなら、お前も世界も滅ぼすルートを探るぜ」
 「お優しいねえ。死出の道連れが世界とは。邪魔が過ぎて突っ返しちまいそうだ」
 「そんときゃ……あー。もういいか? こういう話し方は慣れてないんだ」
 
 頬をかいていた腕を、けだるげに前へ振り出す。嘘、ではないはずだ。たとえ続きが思いついても、口に出しにくければ慣れていないのと同じ。あと単純に、こいつがめんどくさい。

「それだけ言えりゃ上等さ。さて、忘れる前に要件を言おうか」