檜の清香、幽かに。
 空は四角く、茶色であった。

「……おはよう」

 起こした上体から、真っ白な布団が滑り落ちる。
 風通しの良い和室には、畳で反射した春の陽光が満ちている。

 ような気がしたが、よく見ると一部不自然な陰がある。その陰は薄く赤みがかっていて、私の側に座る彼女への陽光を和らげている。陰は彼女の顔を仄かに赤く染めている。

「おはよう、パチェ。一発殴らせて」

 そんなレミィの第一声は処刑通告でした。

 さしもの私も目が覚める。いかに私がロイヤルフレアとか、ベリーインレイクとか吸血鬼クリティカルな魔法を持っていようと、先手で潰されれば成すすべは無い。蕎麦屋で冷たい方を注文しようとしても店員が離れてしまえば私は何もできないように、私は出来上がった温玉を卵と一緒に頂くしかないのである。頂きます、ご馳走様。お客さん、お代は。すいません、財布は持たない主義なんです。

「……ツケで」
「ずるいよお姉さま! じゃあ私は十発!」

 第二声、さらなる命の危険を足し合わす吸血鬼。畳の日陰を狙って寝転がるフランドール。

 さしもの私も目が覚める。温玉にとろろを足し合わせるとその破壊力は十倍になる。摩り下ろしただけの山の恵みが輪切りの青菜も海の雑草も天かすをも全てを過去にする。これぞ美味さのマーキュリポイズン。二杯目もらえますか。金払えよ。宵越しの銭は持たない主義です。それは初めから持たなくていいって意味じゃない。

「……消し飛ぶから、ツケで」
「私はその後に撫でてあげたいです!」
「……キャラ変わった?」

 その向こうの縁側から第三声。コアがうつ伏せで倒れている。いや、あれ日向ぼっこしてないか。猫が伸びをするかの如くぬくぬくくつろいでないか。吸血鬼の前でそれをやるのはお前くらいよ。二人は微塵も気にしてないようだけど。 

 ともかくそんな悪魔三人と、私。魔法使いが一人。それが今この部屋を支配しているらしい。起き抜けで半分閉じた目で辺りを見回す。畳があり、敷居があり、障子があり、竹林があり、床の間があり、掛け軸があり、そこには太く力強い字で『妹紅殺す』と書かれていた。縁起の無さが全力投球されている。本当に倒れた人を寝かせる部屋なのか疑う。ここが病院であるという予測をそっと消す。そんな事をつらつら頭の中で回していると、記憶の靄は一緒に急速に巻き取られていくわけで。

 ふっ、と靄が晴れたら、すっ、と指先まで冷たくなる心地がしたのでアグニシャ……待ちなさい、落ち着きましょう、ここは木造住宅。普通に状況を整理する。インは? 盗撮映像は? 今日の私、どれだけ他人に世話かけた? というか今日って今日なのか? ここはどこで私はパチュリー?

「……聞きたいことは、何から聞けばいいのかしら?」
「いや知らんよ。好きにしろ」

 思わず誰かを頼りたくなったが、レミィに一蹴される。少しくらい頼らせてくれよと思ったが、そういえばそもそも先に頼らなかったのはこっちではないか。イマジネーション、ワン。レミィの立場。親友がなんか朝っぱらからぶっ倒れ、起きたところに自分の部下が追撃し、起きたところへ小悪魔二、三人と魔理沙を通しつかの間の休息を与えると、突然病み上がりに客観的に無理な真似をしてそのことは全く伝えられず……

 ……うん。

「…………心配、かけたわね。ごめんなさい」

 私がそう言うと、レミィは一瞬だけ、面食らったような顔をした。しかしすぐに表情を戻し、目を瞑り、胸に両手を当て、羽根を伸ばす。

「……全くだ。パチェ、お前は自分が誰だかすぐ忘れてしまう。お前は偉大なる紅き吸血鬼の寵愛を受けた魔法使いだ。何を恐れることがあるのかしら?」

 何時ぞやの異変でもやっていたカリスマポーズ(レミィ談)だ。ただしフランドールと寄ってきたコアが隣にいるため、羽根はぴんと上に伸ばされている。窮屈そうなカリスマだな、レミファー。おいテンプテーション止めろ。
 ところで? どうしてこのタイミングでひそひそ話をしているのかね、コアくん。

「フランドール様……ゴニョゴニョ」
「その『体裁』をドッカン。こうね」
「えっ?」

 突然フランドールがぐっと手を握る。その仕草に驚いて声を漏らす《《コア》》。おかしいな、あの距離でも意思の疎通ってそんなに困難なのかしら。いや納得できるな、できてしまう。だって私小悪魔のこと何も知らなかっ――。

「オラァ!」
「えっ」

 ――えっ、レミィ、何!? 詠唱間に合わなっ……! 『チェンジ』! だっ、『ダイヤモンドハードネス』!

「心配! したんだから! ほんっと!! いくら!! 信頼してても!! 倒れてるお前を見て!! 心配しないわけ!! ないでしょうが!!!」
「それっ……は! 本当に……悪かったから! 私が! だから……っちょ、ちょ待っ、割れる! ヒビ入ってる! ゆっくり話し合いましょう! ねっ!」

 何、何事っ!? なんで急にレミィが殴りかかって!? い、いや、おっ、落ち着け、私。たとえヒビが入っていようと関係ない。『ダイヤモンドハードネス』は必ず一撃耐える魔法だ。そしてさっきレミィは「一発殴らせて」と言った。ここから導き出されること! 私に焦る理由はない! 私の魔法を信じるんだ!

「そんなこと! あんたも、分かってるでしょ! だったら、それは謝ってほしいことなんかじゃないわ! 言わなくたって気づいて直すんでしょ、それくらい!」
「いや……そうかも! だけど! だったら何! 言われないと分からないこと、今気づけって言いたいの!?」
「そうよ!」
「無茶振りじゃないの!」
「そうよっ!!」

 だから今の音! めき、って音はきっとレミィの筋肉の音! いくら起き抜けだからって、私の魔法が拳一つで破れるわけがない! これは見た目は初級金魔法でも! それに加えた事象魔法で! 一撃耐えることがもう決まってるんだから!

 ――いやでもレミィだぞ! そういうの関係なく打ち抜いてきそうだな! 夜の王とか名乗ってるくせにたまに半端なく脳筋なとこあるし! 乗馬のコツ聞いたら『まずは戦って上を教えることね』とか言い出したの覚えてるからな! あっ、マズい、考えたら不安になってきた!

「言いたいことを言ってあげるわよ、魔法の撃ち合いに吸血鬼は無力だし、撃ち合いになったのは唐突で言う暇なんてなかったし、私に頼るほどでもないって考えてたっていうんでしょ!」
「いやっ……ほんと! 大体……合ってる! でも! じゃあ、そこまで分かってるなら、私が殴られる理由は……」
「それとこれとは……別よ!」
「別じゃなっ! ……あ」

 くしゃ、と。

 とても軽い、卵をそのまま落としたような音がする。

 幻視に映る、視界一面のクモの巣。それが私の魔法の最期であると分かった頃には、もう遅い。私の体にレミィの手が触れる。コンマ数秒もすれば、私は後ろの障子を二枚ほど突き抜けて飛んでいくことだのにそこで何で引く必要があの私の襟に手が引っかかってそれめっちゃ締ぐぇ! 

「純粋に、ムカついたの! あんたが、私を安く見てることが!」

 ――何か、言い返そうとする。
 けれど、言葉が出ない。
 ただ、目を合わせることしかできない。

 その目は、毅然として。不安も、恐れも、涙もなく。
 捻り上げられた襟元と、突き合わされた額の間で、真っ直ぐ私を射抜いている。

「吸血鬼としては無力かしらね! でもね! それ以上に、私は紅魔館の主よ! やれることはいくらでもある! 私が出来ないなら、誰かに頼ることだってできたわ!」

 欄間が軋る。
 鴨居が錯う。
 叫ぶ声は、私の思考をも揺らがして。
 自ずと、次に続く言葉を導く。

 レミィは――
 

「私はね! ただ、あんたが困ってるなら!
 一緒に考えさせて欲しかったのよ!」

 …

 ……

 …………

 
「……………………ごめんね、レミィ」
「ふん!」

 レミィは顔を離し、握り込んだ私の襟元を緩めた。身体が自由になる。その拍子につい深呼吸をしてしまい、私は軽く咳き込んだ。その間、レミィはずっと不機嫌そうに口角を下げながら、腕を組み、私から目を逸らしていた。

 そうして二十秒はそうしていただろうか。ようやく咳も収まった頃、不意にレミィが小さな声で呟いた。

「………………分かれば、いいのよ」

 ――ああ、本当に。
 ――なんて、私は。良い友人を持ったのだろう。

 
「……ありがとう」
「!」
 
 
 そう思うと、気づけば感謝が口を衝いていた。
 それは偽善だ。レミィが許した事は、私が感謝することじゃない。レミィが自分を整理したのだ。

けれど、私は思ったのだ。
傲慢で身勝手で、けれど私を心の底から思い遣っていた、この親友に向けて。
たった一言だが、この思いを伝えたいと思った。

ありがとう。

 私は、今。
 幸せだ。

「……」
「おねぇさま。ちょっと怒りすぎたんじゃない? 顔が真っ赤よ。外で冷やしてきたらどうかしら?」
「……」

 俯くレミィにフランドールが囁く。
 暫くして、レミィはすっと立ち上がり、静かに襖を開け、そして廊下へと姿を消していった。

「……あー。それじゃあ、私は同僚の皆様に吉報をお届けに……」
「へえ。じゃ、私は魔理沙とアリスに伝えてくるわね。小悪魔、途中まで一緒でしょ? エスコートしてよ」
「うぎっ。……は、はい……パチュリー様、お大事に」

 そう言って、二人は反対側の障子――庭へ降り立ち、空へ飛び上がる。誰も居なくなった和室には、再び静寂が訪れて。やがて安全を確認したのか、レミィの大声で離れていた雀達が舞戻り、兎の食べ残しをつつき始める。

 目を閉じて、その言葉を意識する。

 困っているなら、考えさせろ。

 それは私が、小悪魔達のことを知ろうとした、本当の動機だった。きっかけこそ目の調子が悪かったからだが、仮に魔法の失敗が続いたとか、一ヶ月ちょっと悩んだ魔法の研究課題が解けたとか、そういった話であっても私は同じ事をしただろう。

 私はただ、助けたかっただけで。それが私だけだと無意識に勘違いしていた。私は特別ではない。レミィも、小悪魔たちも、きっと同じ気持ちだったのだ。
 
 そうすると、ついさっき良い友人と褒めたばかりのレミィと私が同じステージに立つことになって、必然的に私の株も上がってしまうのだが、それはどうなのだろう。この結論のために私がレミィを褒めたようにすら見える。心を読める妖怪がここに居なくて助かった。今のは

仮に言えないとしても、実は私の深層心理ではそう思ってましたとかじゃなかろうな。だったらレミィの隣に並び立てるような魔女とは到底思えないし思いたくないぞ。

「……研究……しましょう」

 思いたくないから強くなろう。

 いつも通り。
 株が上がるなら、結論ありきだと言うなら。
 その中身を、今からでも作ればいい。

 幸い、体は痛みに慣れるほどボロボロだが、魔法は使えるようなので不自由はないだろう……

「体裁の破壊なんてできたんですね、フランドール様」
「やるのは今日が初めてよ。ちなみに、私は土壇場で成功するほど運命を信じちゃいないわ」
「え? それってどういう」
「何より、貴女が教えてくれたからね。小悪魔」
「いや、私はただ、レミリアお嬢様はいつもあれだけカッコつけてるのか聞いただけなんですけど。なんかタイミング的に私が首謀者みたいになりましたけど」
「謙遜することはないわ。お手柄よ。凄いじゃない」
「あの! 私のせいにしようとしてませんか!」

それでもここがどこなのか、その判断材料となる。頭に浮かんだその言葉、乾坤一擲。

「和室ね」
「そうね」
「……パチュリー様、ここは永遠亭です。お辛い事実かもしれませんが……貴女は、第三金曜日まで眠っていたんですよ」
「分かりにくくない?」
「いや、パチェには効果覿面よ。ほら」
「……第……三……金っ……!?」

……軽く頭を振り、頭の靄を取り払う。まだ寝惚けているのか、うまく言葉がまとまっていない事が自覚できてきた。

随分制御が効くようになったのね。自分の周りに留めるのが面倒臭いからこの辺一帯覆うって言ってた頃が嘘みたいだ。

他には誰もいない。

 それを理解すると、ようやく頭が回りだす。霞がかった記憶がふわふわ浮かぶ。畳に障子、フリルとベスト。合わないな、とか。遠くに竹林が見えるからここは永遠亭かな、とか。畳にべたーっと伸びてるフランドールに何も言わないレミィなんて珍しいな、なんて。どうでもいい事をつらつら回していると、記憶の靄は一緒に急速に巻き取られていくわけで。

わかりやすさと面白さは別なのだと思いました。
東方は姿さえ合っていれば東方であります。
ならば、その姿を示せない小説では、一体何を東方とすれば良いのでしょう?