朝露がこつりと、石橋を穿った。
後に残された水滴たちは、周りと手を取り合って一つに固まる。それでも近づく揺れには耐えきれず、やがてつるりと葉を滑り降りると、石畳の上でぱっと弾け、淡く輝く水たまりの一つになった。
そこへ揺れの主が葉を押しのけ、水たまりを無造作に踏み荒らしていく。二つの光る眼が薄闇を切り裂き、朝靄の向こうを照らしている。額に二つ、【普通】と【ナカリア】という文字が淡く光っている。それが石畳に刻まれた溝をなぞってはととん、ととんと進んでいく。
「……木が伸びてきたな。もうそんな季節か……」
ふいに、揺れの主――路面電車の中から、声が聞こえた。フロントガラスの向こうに、矍鑠たる老爺の姿が見える。
紺の制帽にラベンダー色のシャツ、黒のスラックスと黒のローファー。目元に皺は刻まれていても、なおその眼光は鋭く。時折電車にかかっては、後ろに流れていく若木を眺めながら、彼は運転レバーをぐっと握り直した。
電車は規則正しくリズムを紡ぎ、橋の脇から張り出す枝をぱきぱきと折り進む。石畳に落ちた枝が時折車輪に踏まれて弾けている。木はどこか、残った枝を大事に抱えているように見えた。幹の方ではつくつくと蝉が鳴いていた。
「……うん?」
その声と共に、レバーがゆっくり押し込まれた。路面電車は徐々に速度を落とし、揺れも少しずつ治まっていく。
完全に止まったのを見計らい、老爺は引違いの戸を開いた。車両の横腹に備え付けられた、運転席に直通の戸だ。そこから首をひょいと出し、軽く左右を見渡した。
朝靄はさらに深くなり、もはや500m先も見通せない。霧と訂正されるべきそれが、右も、左も、上も、下――暗い谷へ橋桁が延びている――も、静かに白く塗りつぶす。
とっ、と老爺が石畳に降り立った。そのまま前へと歩き出す。深い霧などお構いなしに、欄干へ向かって真っ直ぐ歩く。小さな風の音が聞こえる。それは老爺が向かう先で鳴っているようだった。
「この辺か。よしよし、居たな」
欄干にたどり着いた老爺の視線は、下に向いていた。
誰か、いる。
欄干に凭れ、俯いて座り込んでいる。
ともすれば男児にも見えるほどに小さい、白衣を着た人間が一人。消え入りそうな呼吸音は風の音となり、冷えた空気に溶けていく。その側にあるバッグの中身は投げ出されており、中からは書類が二、三枚覗いていた。
『梁先 茶樹』。
書類の名前欄には、そう書かれていた。
小さく燃え盛る火が、ポットにかかる。中の珈琲が気泡を弾く度、辺りが芳香で満ちていく。換気扇から外へ流れ、早朝の空気に彩りを添える。火は二分ほどで消し止められた。
「……ん」
「おっ、起きたか。丁度いい」
高反発なベッド。高反発な壁。しかし材質はもふもふしており、寝苦しさはない。目覚めた茶樹は、自分が座席に寝かされていたことに気がついた。胡乱な目のまま、声の方向に首を回す。
「ほれ。まずは水だ」
「あ……ありがとうございます」
ようやく人がいることに気づいたのだろう、慌てて茶樹は体を起こし、ガラスのコップを受け取った。少し手で温めてから、遠慮がちに一口ずつ飲み下す。澄んだ空気が胸を貫いたような感覚だった。
老爺はにっと笑う。
「美味いだろう。ナカリア一番地、暮寂山の水だ。どうだ、元気出たか?」
「……ええ。ありがとうございます、えっと……」
「十原だ。あんちゃん、あんたが通ってきた門の人間さ」
「門……。……っ! す、すみません! お手数をおかけして……!」
火をつける
「良いってことよ。ちょうど用事があったから、そのついでだ。あんちゃんが無事で良かったよ」
「私も……会えて良かったです。あのままだと霧で死んでいたでしょうし……助かりました」
「……ほう」
「ま、経緯は後で聞こうか。腹も減ったろ? 朝食を振る舞ってやるから、ちょっと待ってな」
「朝食……」
腹の虫
「……その! そこまでしていただくわけには!」
「もう遅いな。レイクー、食器を出してくれ」
『こちらですね。マスター』
「うわっ!?」
両手に食器
男装の麗人といった出で立ち
目には瞳が無かった。
「驚いたか? この路面電車の統括制御AI、レイクだ。こいつがいるから、儂は運転席を出てても問題ない」
『あります。私の計算上、確実に事故率は上がっているのです。あまり長く離れ過ぎないでください』
「ははは。0.0005%は誤差だと思うんだがな」
かちゃかちゃ
「AI……?」
『……やはり驚いています。どうも、人間は難しい』
「少しずつ覚えりゃいいさ、誰でも一生勉強だ。儂だって嫁の気持ちはなかなか分からんかった」
かっか、
「さて、あんちゃん。黙って待ってるってのもなんだ。次はあんたの自己紹介と行こうか」
「あ、はい。梁先茶樹。掃除屋です」
『掃除屋?』
「っと、レイクは知らねえか。ナカリアにゃ、発明家っていう何時も暴れてる連中が居るだろう? 掃除屋はその後始末さ。発明家が残してったもん、綺麗サッパリ消して元の街に戻すんだ」
『なるほど。秩序の実働隊ですか』
「まあ、そんなところです」
「そんでもって、超エリート部隊でもある。発明家は千差万別だが、その全部に対処しなきゃいけないからな。そうだろ?」
「……あまり、自分がそうだという自覚はないですが……そうですね」
『? 自覚しているから、ここに来たのでは?」
「実績がありませんから。ナカリアに着いたら、色々教えてもらうつもりです」
『ああ、新人なのですね』
「着いたら、か」
「じゃ、あんちゃん。ナカリアについちゃ、今はどこまで知ってるんだ?」
「えっ、と。発明家の街、ですよね。毎日新たな技術が生まれて、それが街で披露されて。見所があったら、上の街……フラスキアに召し抱えられる」
「おう、正解だ。じゃ、ナカリア
「そいじゃ、頼むぜ。さっきの水で珈琲を作ってあるから、好きなだけ飲んでくれ。仲良くしろよっ!」
調理場に引っ込む
『なるほど、確かに。今のマスターの気持ちはよく分かりませんね』
「……食べることになってる!」
『? 当然ではありませんか。ここから空想実現都市「ナカリア」までは37分12秒かかります。このまま軽度の飢餓状態の貴方を届けると、一歩目で倒れる可能性は86%もありますよ』
「そ、そうなんですか……」
かちゃかちゃ
「……えっと。それでは少し、お世話になります。レイクさん」
『宜しくお願いします。マスター以外の方』
「……括りが広くて困りませんか?」
『あまり。基本的にこの車両に乗るのは一人組ですから。略してスイカです』
「美味しそうです」
『スイカです』
「……えっ、あの、何でしょう。近い、のですが」
誰何
「……あっ。そうか、自己紹介してませんね」
『お気付きになられましたか』
「すみません。梁先茶樹です。お茶の樹と書いて、茶樹」
『茶樹、ですか。良い名前ですね』
「そうですか? 私はどうも、あまり好きになれなくて。込められた意味がよく分からないので」
『お茶が飲めます』
「それはそうですが」
『花が綺麗です』
「それはそうですが」
『新芽の天麩羅が美味しいです』
「それは……本当なんですか?」
『機械は嘘をつきませんよ』
笑み
『春から夏、伸び始めた茶の新芽を摘み、薄く衣を付けて頂くのです。茶の香りとほろ苦さが癖になります』
「へえ……美味しそうですね。ナカリアでも食べられたら良いんですが」
『食べられます。一番地に茶畑がありますので』
「おお、それは良かった」
『ただし、一番地に行くのは辞めたほうが賢明です。新芽は四番地にも出荷されているので、そちらで食べることを勧めます』
「え……どうして、ですか? やはり産地で食べるのが良いのでは」
『一番地は危険です。どうしてもというなら、三人以上で行くことをおすすめします。一人やられても担げますので』
「……未開拓地?」
『いえ。文明的な生活をしています。ただ、カルト宗教が居るのです。「ラヴィッカ」に会ったらお気を付けください』
「山だけじゃないんですね」
『不思議ですか?』
「ああ、いえ。一番地は、ナカリアでも有数の危険地帯と聞き及んでいたので。てっきり荒地のようになっているのかと」
『それは常識ですか?』
「常識? いや、どちらかといえば
なるほど、一番地に。初めに頂いた水も一番地でしたが……もしかして、そこは自然が豊かな場所なんですか?」
『いえ、不自然極まりありません。
そのままでもいいが、これが珈琲になるともっと美味い。飲むかい?」
「レイクさんは、自分の名前の意味を知ってますか」
『0193110246510』
「えっ」
『製造ロットです。頭の三つを取ってレイク。その他は名付けた方にお聞きください』
「名付けた方? って、もしかして十原さんですか」
『そうです。ここに配属した際は、私に名前はありませんでした。呼ぶときに困るからとマスターが名付けたのです』
「そうだったんですか。なるほど、困るから……」
『私は今でも製造ロットのほうが良いと考えています。この電車はアンドロイドも数多く乗せてきましたが、一人として私と同じロットの方はいませんでした』
「アンドロイドも? あれ、基本的に一人組なんですよね」
『アンドロイドが遠出するのは不思議ですか?』
「まあ、それなりに。私が居たところでは、皆常に主人の側で世話をしていましたから」
『ナカリアでは、そういった使われ方は珍しいですね。一定の試験を合格したアンドロイドには市民権が認められるほどです』
「市民権! 驚きですね……」
『ちなみには私は落ちました』
「ええ!?」
こんなに人間味があっても落ちる
試験とは一体?
『必要が無かったんですよ。市民権と言っても、実際はほぼ選挙権です。或いは選挙券、いや、選挙参加チケットと呼んだほうが正しいでしょう』
「何だかどんどん企業的になっていってますが」
『実際そうです。ナカリアにおいて選挙は一大イベント、祭りですから。しかし私はマスターに付いていけば入れますので、必要が無い』
「本当に要らないじゃないですか」
「ただ、それじゃ俺の所有物扱いだからな。俺が風邪引いたりすりゃ入れなくなる」
「十原さん」
『体調に
『詳細は明かされていません。傾向と対策を探られないよう、終了時に全ての情報を消去することが定められていますので』
「
『作品を応募せよ、という課題だったのです。題は「不完全」。私は丁寧に分解したキャンバスを送ったのですが、ありきたりだとして却下されました』
「そんな、それで駄目だなんて」
真っ白な紙を送りそう
「ま、あんときは相手が悪かったのさ。造り主の切った爪叩きつけて、『自分を提出します』だっけか」
『自らが不完全であるというのは、今更議論するほどでもない話です。何故あれが通ったのか私はわかりませんでした』
「そいで調べてみたら、そいつは三年も前からずっと審査員の動向を追ってたんだとさ。
最優秀賞は
『ただ、確かめたいなら……そうですね。ナカリア四番地の「空上丁」をお訪ねください。新芽の味にきっとご納得いただけます』
「空上丁……」
めも
『旬は秋から冬です。お気を付けくださいね』
「はい。ありがとうございます、レイクさん」
『0193110246510』
「えっ」
『私の正式名称です。折角ですから』
「えっ、えーと……ぜろ、いち、きゅう……」
「ははは。無理しなくていい、頭の三つ覚えておけば上等だ」
フライパン
カリカリベーコン
ちょっと落ち込んだ感じ
『……そうですか。茶樹様なら或いは、と思いましたが。私には、あなたが他と違って見えたので』
「え……」
「そりゃ当然だろう。これからナカリアに行く人間だ、どっか吹っ切れてなきゃ『門』は通さない。現に橋端でぶっ倒れてたなんてのは、あんちゃんが初めてだからな。誇っていいぞ、皮肉じゃない」
「あ、あはは……」
あつあつ
「さぁて! あんちゃん、手を合わせな!」
「手を?」
前に突き出す
「違う違う。自分の両手を合わせるんだ。ナカリアにゃあ、決まり事なんてのは殆ど無い。けど、覚えてて欲しいことはある。感謝の心だ」
「感謝の……」
『……』
いつの間にか座り
厳かに手合わせ
「いただきます」
『頂きます』
「……いただきます」
緑と黒のスイカカード
私、ひとつだけ嘘をつきました。
86は甘い見積もり
「おう、今日は14号か。よろしく頼むぜ」
『宜しくお願いします。マスター、結局、そちらのマスターではない方はどなたなのでしょうか』
「ああ、こいつは」
「あっ、梁先です! 梁先、茶樹!」
『ヤナサキ様。データベースに書き込みました。権限をguestからmemberに移行。視覚情報を再構築します』
「……? 再構築したんじゃないのか?」
『お披露目はお食事が揃ってからにいたします』
「もう遅いな。ほーれ、新品のパン袋も開けちまった。こいつは期限が早いから、一人で食ってちゃ間に合わんかもなー」
「あっ、えっと……」
白がすべてを覆い、何も見えなくなった霧の中。その電車は換気扇からしゅんしゅんと、芳醇な香りの蒸気を出しながら、正確にレールをなぞっている。蒸気の源ではポットがキャンプバーナーにかけられており、隣には豆がたくさん詰まった袋と、
が置かれている。
「…………頂きます」
「いただきます」
「そいで、あんちゃんはどうしてあそこで倒れてたんだ?」
「うっ。やっぱり、言わなきゃいけませんよね」
「儂の仕事だからな。どんな理由にせよ、石橋で倒れる人間は増やすわけにいかない。聞かせてもらおうか」
「……くぅ」
「――それで、あんちゃんはこんな橋端で倒れてたってのかい! はははは、若いねえ!」
「ええ……本当に、返す言葉もなく……」
二人はそれが並べられた机を囲み、賑やかに談笑していた。正確には、賑やかなのは老爺一人の声だけで、顔を赤らめて縮こまっている茶樹の声は比べるべくもなく小さい。
電車が時折かすかに揺れる。
「恥じることはないぞ、あんちゃん。この長い石橋の半分まではいってたんだから大したもんさ。向こうに行っても誇れることだぞ」
「そうなんですか? てっきり向こうの――あの都市では、この程度はよくある事だと思っていましたが」
「はじめは皆大人しいな。向こうに行ってから弾けるんだ。だからこそあんちゃんは凄い。俺は気に入ったよ」
「は、はあ。ありがとうございます」
圧され気味になりながら、乗客席の茶樹は答える。それは齢七十ほどに見えるのに若々しい話し方をする老爺のせいかもしれないし、まくし立てるようによく通る声で話す老爺のせいかもしれない。茶樹は自分でもどちらか分からなかった。
「面白い話の礼だ、向こうでお薦めの料理店を教えてやろう。メニューは全部シェフの気まぐれ、調理法も気分次第。だけどきっちり旨くて、どんな料理もテイクアウトまで出来ちまう。どうだ、発明都市の料理店って感じだろ?」
「……興味がありますね。店名は何でしょうか?」
茶樹はメモを取り出した。ふとさっきの自分を思い出す。『初めてその場所に行くなら、まずは自分の足で向かってみたい』。そんな気概を空腹と疲労にへし折られ、半ば諦め気分で欄干にへたり込み、震えながら遺書を書いていた自分。小さく頭を振ってその記憶を追いやる。
「『空上丁』だよ。五番地にあるから行ってみるといい。そのまま住んじまうのもお薦めだ。何せ、あそこは都市で一番《《致死率》》が低いからな!」
「不穏な単語が」
「とはいえ事実だ。あんちゃんも最低限自衛は出来るだろうが……気をつけろよ」
霧は一層深くなり、路面電車を覆い隠す。登り始めた日差しはまた翳り、今や影すら作れない。運転席の老爺は、じっと前を見つめていた。
ペンの音だけが車内に満ちる。
「……肝に銘じておきます」
「ははは、良い返事だ。さて、そろそろか」
老爺は運転席に戻ると、レバーをぐいと押した。路面電車の速度が少しずつ落ち、やがて止まる。
「ここらが限界だな」
「ええ。本当に助かりました。ご飯、美味しかったです」
茶樹はすっくと立ち上がり、外に繋がる扉に手をかけた。開いた隙間から霧が流れ込む。車内の視界が霞んでいく。温まった空気が外に逃げる。視界が白に塗り潰される。
構わず一歩、踏み出した。
「気にするこたあない。つい買い込みすぎて余ってたんだ。むしろあんちゃんが食ってくれて助かったくらいさ」
「それでも、有り難かったんです。
それに、あんちゃんには謝るよりも大事な仕事がある」
「仕事、ですか。……えっと、私の専門は『掃除』で……」
「あっと、それじゃないそれじゃない。『どうして24kmの石橋に徒歩を選んだのか』ってことさ」
「え。それは、えっと」
「あんちゃん、専門があるってこたあ『発明家』だろ? あの街が近づくたんびに、ワクワクしてたはずだ。それが期待だけで終わっちまうってのは、きっと――他の発明家だって、望まねえだろう」
「だから、予防したいのさ。関所としても。もちろん、俺個人としてもな。いつも『偶々』間に合うとも限らんし」
「……その、ですね……」
「儂ら関所にゃ、予防の義務がある。あんちゃんがどう考えるかは分からんが、儂らはこの石橋で命を落としちまうのは勿体無いと考えてる。あんちゃん、専門があるってこたあ『発明家』だろ? あの街が――ナカリアが近づくたんびに、ワクワクしてたはずだ。それを期待だけで終わらしたくないんだ」
あんたが向かってた街は、水一つとってもこんなに美味い。どうだ、ワクワクしてきたか」
「……そうですね。ありがとうございます」
「よーし! 元気になったなら何よりだ。あんちゃんがどうして倒れてたのか、聞かせてもらおうか」
「えっ。それは、その……」
「儂ら関所にゃ、予防の義務がある。あんちゃんがどう考えるかは分からんが、儂らはこの石橋に
窓の外はすっかり白くなり、もう石畳も見えない。この路面電車だけが世界に取り残されているようだった。遥か遠くで、蝉が鳴いているのを除いて。
「いいのさ。ウチにはこいつがいるからな――レイク!」
「現在距離、8,291m。燃料74%。到着まで20分です。お呼びでしょうか」
「うわっ!?」
車内が声に包まれる。
ひと呼吸おいて、それは人工の声であると気づいた。スピーカーが座席の横に付いていた。
紅錆山
くれさびやま
墓石山