謎が謎を、疑問が疑問を。
 呼んでもないのに降って湧いたそれを、こころは一蹴する。
 「私の目的はただ一つ。『お前にこの面を買わせること』これだけだ」
 「…………それだけのために山に?」
 「私が人を助けに山に入るように見えるのか?」
 「命蓮寺の方ですよね?」
 「でも修行僧じゃないし」
 

「そうだ。そういうことだからお前はお面を買え」
 「どういうことですか!?……あ、でもどっちみち私、いまお金一銭も持ってないんです」
 その言葉に、こころは般若のお面を顔にやる。
 「……なんだと?」
 「ひっ、いや、五銭どころかびた一文も存在しないというか……」
 「どういうことだ。お前、うちによく来る狐の配下だろ。お前の主人はお小遣いをくれないのか?」
 

 
 「ちょ、ちょっと待ってください!五銭って、私を助けたお代じゃないんですか?」
 橙がこころの言葉を制し、疑問をぶつける。
 とうとうと話し始めた文句を遮られたこころは、不機嫌そうにその疑問に応じた。
 「そんな話はしていない。命蓮寺戒律第十二項、『困った時はお互い様』だ」
 「……そうですか。ありがとうございます」
 橙は胸をなでおろした。
 幻想郷はノリがいい。祭りや行事ごとは絶対外さないし、みんな積極的に楽しもうとする。
 ただしそれは決して善人が多いという話ではない。幻想郷が良い人ばかりなら、宗教なんて今頃廃れている。ましてや妖怪ならば尚更、むしろ良い奴の方が少ないだろう。
 だから橙も警戒していた。いくら目の前の妖怪が、最近主人がお世話になっている命蓮寺の妖怪だとしても。
 いくら主人がそこへちょくちょく愚痴をたれに行っていたとしても。
 それを草の根妖怪ネットワークで知ってしまってショックを受けたことがあったとしても。
 だから最近主人を見る目が優しくなっていたとしても。
 一応、警戒していた。
 「どうした化け猫、頭抱えて。買いたくないのか?」
 「いや、ちょっと思い出しちゃって……そういえば、どうして急にお面のセールストークなんて?」
 「最初から言ってるだろう。セールスバーゲン」
 「伏線だったの!?」
 

 「おいおい、私は面霊気、面の妖怪だぞ?お面にはそれに見合った価値がある事くらい、知っているよ」
 「……お面?」
 「そうだ。ああ、紹介を忘れてしまったな――」
 

 「じゃあさっきの圧迫面接の意味って」
 「知覚のコントラストというものがあってだな」

 「でもお面は買わせるんですか」
 「当たり前だ。何のために山まで行ったと思っている」

 
 「じゃあ払わなくていいんですね、私」
 「そうだ。だからお前はお面を買え」
 「どんな順接ですかそれ!?……というかどっちみち、今一銭も持ってないので買えないんですが」

 からは。つまり、他の妖怪から取るのだろう。例えば、藍様とか、紫様とか。
 また主人の胃痛を増やしてしまったことに心を痛めつつ、橙は次の質問をぶつけた。
 「そうですか、ありがとうございます。……というか、人里で有名な能楽師さんが、どうしてお面売りなんて……まさか、能、やめちゃうんですか?」
 「そうではない。これはバイトだ。そしてノルマは貴様だ」
 

 こころが橙に指を突きつける。
 橙はぐっと喉を鳴らした。どう言ったものか、返答に迷う。
 今の彼女には理解出来てしまった。目の前の妖怪からは、最近の主人と同じ、さっさと仕事を終わらせて家に帰って寝たいオーラが出ていることが。
 そんな者に私の返答を――不都合な真実を伝えれば、
 
 
 「まあ今は放っておけ。さて、商談を始めようか」  
 「えっ」
 こころは一輪をどかし、そのぶんだけ椅子を橙のベッドに近づけた。手を伸ばせば橙の顔に届くほどの距離だ。
 「しょ、商談って、やっぱり」
 「ああ、その通りだ。お前が起きなきゃ話にならないからな。結構退屈だったよ」
 こころの面がふわりと浮き上がる。その面の目にもちろん生気などなく、ただ虚ろに橙を見つめる。
 橙はその面たちから目を逸らしつつ、こころに向かって言った。
 「あ、あの、助けて頂いて嬉しいのですが、私の持ち合わせは……」
 「ほほう?よもやただで助かったと思うてか。我々はそう甘くはないぞ」
 こころの周りの面は次々と増えていく。十。二十。三十。その全ての目はまっすぐ橙を射抜いている。
 こころはおもむろに手を伸ばし、面を一つ手に取った。怒りの表情、般若だ。それを手でいじくり回す。丁寧に、丁寧に。
 その動作を一つするたびに、橙の肩はビクリと震えた。畏怖、恐怖、綯交ぜにされた感情が胸の内で叫ぶ。逃げろ、と。
 「……いくら、ですか」
 しかし、橙は式神だった。八雲の九尾の式神であった。ここで逃げてしまえば、名に傷がつくのは橙だけではない。そんな式を育てた主人、八雲藍の名にすら傷が入るかもしれない。
 こころは懐をまさぐった。自分ではなく、一輪の。
 壁にもたれた一輪を堂々と漁るその姿は、傍から見ればただの泥棒ということさえ忘れさせる。
 だから橙は声を振り絞り、答えた。主の為に、自分のために。
 「この狐面が、今ならなんと五銭だ」
 たとえ嘘だとしても、己が心が、この面妖怪に負けないようにと、『虚栄心』を振りかざし――
 「そっち!?」
 ――反射的に答えた。虚栄心、もって二秒。この日彼女は、幻想郷最速になった。
 「えっ」
 「えっ?いや、私を助けた分のお代かと……」
 困惑する橙を目の前に、こころは肩をすくめる。
 「はぁ……そういう金勘定はマミゾウや寅の仕事だ。いかにも金を持っていなさそうなお前からは、ふんだくるつもりもない」
 「微妙に喧嘩売ってませんか?」
 「じゃあ、お前は今いくら持っているというんだ?」

 「そう言えば、お二人は命蓮寺の方ですよね?どうして山に?」
 「……ああ。忘れるところだった」
 こころは懐をまさぐった。
 「いや、何やってるんですか」
 ただし自分ではなく、一輪の。
 「貸したものを返してもらうだけだ」
 「だからってそんなところにある物を」
 六十六の面に交じるといけないからと、こころが一輪に渡したのだが、それを知らない橙から見ればただの泥棒だ。
 そしてあの狐面を取り出し、少しためてから、商売口調を披露する。
 「さぁさいらっしゃい!」
 
 
 「これに見ますは、狐のお面!それもただの面ではない。なんとこれを着けていれば」