「……そりゃあ確かに今日たまたま暇だったけどさあ。けどもっと適役っていうか暇そうな奴がいるでしょうに。なんだって私が……」
夏らしく照りつける太陽。しかし今日は風がそこそこあるのでまだ暑くはない方だ。常にそよそよと吹く風は心地よく、太陽で汗ばんだ体を乾かしてくれる。
そんないい天気を台無しにするようにぶつぶつと念仏、ではなく独り言を唱える。雲居一輪の悪いクセだ。
「そう落ち込むな、七輪。むしろ私の商いを手伝えるのだから胸を張るべきだ」
そういう独り言を唱える人間に躊躇無く話しかけるのも、秦こころのクセであった。
「一輪だ。どこから出るのよその自信は」
「私は希望から」
「それなら赤の……って違うでしょ」
そんな話をしながら二人は揃って歩いていく。目指すは山。猫がたくさんいることで有名な、麓のマヨヒガだ。
一輪が何度目かのため息をつく。
「はぁ……まったく、なんだって妖怪の山なのよ。他にもお面を買う奴なんていっぱいいるでしょうに」
「おいおい、商売人として失格だぞ、八輪。お客様のニーズに合わせるのは当然だろう」
「一輪だ。猫にお面はニーズでもウォンツでもなさそうなんだけど」
「今のそいつに必要かどうかは関係ない。私はただ売るだけだ。この狐の面を」
「そういうのを詐欺師っていうのよ」
「世の中には差を作る職人もいるのだな」
「差技師じゃないっての。はぁ……」
話せば話すほどに、一輪の気分は落ち込んでいった。
妖怪の山。かつて一度だけ一輪はその山に入ったことがあった。あなたたちが復活した遠因には、山の神様のおかげもあるのですよ。だから一度お礼と宗教仲間として挨拶をしてきなさい、と聖白蓮に言われた時だ。
もちろん幻想郷にまだ慣れていなかった一輪たちは、何が来てもいいように万全の体制で山へ入っていった。
しかしそれが山を刺激したのか、それとも他に理由があったのか。山に入った瞬間に一輪たちは天狗たちに囲まれ、神社に辿り着くまでありったけの弾幕を張られた。
今でこそ和解はすんでいるが、そうそう簡単に山への悪印象はぬぐい去れない。何せ何の理由もなく襲われたのだ。一輪たちはただ、お礼参りに来たと言っただけだったのに。
「あー、思い出したら辛くなってきた……」
「どうした八雲。ユンケル飲むか?」
「もう一でも輪でもないじゃない。ユンケルは貰うけど」
「毎度あり、五銭」
「こやつめ……」
「私の目は二つだ」
そんな昔の記憶に思いを馳せて十五分。二人は参道の入口に斜めに刺さった、立て札の前に立っていた。
「ふーん、なになに、『超キケン!今スグ帰れ!』……なにこれ?字も汚いし。」
「ふむ?」
こころはおもむろに立て札を引っこ抜いた。
「ちょっ!何やってるの!」
「やっぱり、すぐ抜ける。よほど適当に刺したみたいだな。」
立て札が刺さっていた地面は、とても浅くくぼんでいた。固定の工夫らしきものは無い。
「んー?じゃあ悪戯かしら。でも山に立て札なんて、随分命知らずというか、なんというか」
妖怪の山には天狗たちを主とする社会がある。この社会はとても保守的で、害あるものには全く容赦せず排斥する。麓には『いつまで経っても入山禁止』だなんて立て札があるくらいだ。
そこに悪戯の立て札である。確かに書いていることはあながち間違ってもないが、人間からの評判は間違いなく悪くなることだろう。そして札を立てた者は厳しく罰せられるに違いない。
もっとも、太陽の畑前の『ヘブンズドア』よりマシな悪戯だが。ちなみに、それを立てた人間は現在行方不明だ。
「かわいそうに……」
「いやいや、まだ死んだって決まったわけじゃないから。それにしてもおかしいわね、こんな立て札、すぐに哨戒天狗が撤去するはずなのに。元の立て札も無いし」
「……そんな暇もなかったのかもしれないぞ。一輪、耳をすませてみろ」
「え?」
急にこころの口調が変わったことに疑問を感じながら、一輪は耳をすませた。
すぐさま音が耳に飛び込む。風、せせらぎ、木々の葉の擦れる音。鳴き始めた蝉の声。幻想郷はすっかり夏になってしまったことを象徴する、風流な音の数々。最近得ることのなかった、心休まる一時……
「………………フウ」
「いや、ヒーリング効果を味わって欲しい訳では無いんだが。何かおかしくないか?」
「えっ!?ああ、うん。……あれ?人の声が一つも聞こえない……?」
比喩でも何でもなく、妖怪の山はいつも騒がしい。発明家の河童、新聞屋の天狗、守矢神社と揃っているから無理もないのだが、とにかくやかましい。まれに命蓮寺にまで爆発音が聞こえるほどだ。
しかし、今日の山は不自然なまでに静かだった。河童の金槌の音も、天狗の噂も、守矢がやらかした声も何も聞こえない。あるのは自然が作る環境音だけ。まるで元の八ヶ岳に戻ったかのようだ。
「……これは、一体」
「興味が湧くな。そう思わないか?」
「……いや、思わないわよ。私のカンが言っているわ。この先に行ってはならないって」
「そうか。」
こころは一度うなずいて、そして山へと歩きだした。
「ちょっ、待って!少しは私のカンを信じなさいよ!」
「おいおい一輪、目的を忘れたのか?私たちは面を売りに来たんだ。麓に風を味わいに来た訳では無い」
「スリルを求めに来たわけでもないのよ!この山、何かが起きてる!今行くのは危険だってば!」
一輪がこころの服をつかむ。しかしこころはすぐにそれを振り払い、再び山へと歩を進める。
「伸びる」
「待ちなさいってのに!」
だが一輪も諦めずに、こんどは肩を掴んだ。
行かせるわけにはいかなかった。音が無い。立て札が無い。何より、山の入口で騒いでいるのに、哨戒天狗の一匹すら来ない。用心深い一輪に、最悪の事態が頭をよぎる。
「……ふむ」
一輪の腕を、こころは
「――っ!」
一輪は押し黙った。
命蓮寺で最も敬虔な尼僧、雲居一輪。それはそのまま命蓮寺の教えに最も忠実であることを示す。
すなわち弱きを助け、強きをくじき、人妖平等の世界を目指す。遠い理想だが、決して諦めず、それにたどり着く努力なら、どんなに小さくても惜しまない。それが雲居一輪という尼僧だ。
だからこそ、目の前で困っている人を見かければ助けずにはいられない。それがたとえ、苦手意識を持つ天狗であっても。
「痛い所つくわね……本当、誰に似たんだか」
「くくく、誰だろうな。さて、私は行くが、お前はどうする?」
「……行くわよ。もともとお目付け役だし。その代わり、危ないと思ったらすぐ帰るのよ?」
「一考の余地あり」
「せめて善処してよ!」
そして、ふたりは山へと入っていった。
彼女達が登った参道の近く、人目につかない木と草の中。
廃材となった元立て札の上に、幻想郷で見慣れない河童の発明品が落ちていた。
それは、ほとんど壊れていたものの、小さく声を発していた。
『これは自動放送です。山に侵略者あり。既に山の妖怪の八割は壊滅致しました。また、侵略者は人里に下りる可能性があります。この放送を聞いた動ける方は、速やかに人里にお伝え下さい。繰り返します。山に、侵略者あり――』