「うう……ヒドイです、いきなり石打ちだなんて」
 橙は絆創膏を貼った額を、包帯まみれの腕でさすった。
 まだまだ妖怪としてはひよっ子の橙は、その子どもらしい身体に見合った強さしか持たない。下手すれば石でも命を落としかねないが、今回は運良く、額の傷は一輪の手持ちの絆創膏だけで済んだ。不幸中の幸いというものである。
 「すみませんでした」
 そしてその子どもの姿の化け猫の前に、五体投地をする仏教徒が一人。名を雲居一輪という。
 「いえ、あの、顔を上げてください。何もそこまでやらなくても。助けていただいただけで十分ですから」
 「いいえ!私が悪かった!本当にごめんなさい!」
 「いや、あの、えぇっと……」
 確かに一輪は教えに忠実だが、命蓮寺の戒律に五体投地の項はない。あるのは『決闘以外で他に危害を加えてはならない』ぐらいである。もっとも、封獣ぬえなどは違反しまくっているが。
 ともかくあれでは進まないな、と思いながらこころが口を開いた。
 「気が済むまでやらせてやれ。時間はある」
 「なんなんですか、その余裕は」
 「所謂淑女の嗜みと言った所だ」
 「すみません、読めないです」
 「ただいまお面がセールスバーゲン!」
 「そんな話じゃなかったですよね!?」
 「申し訳ございませんでしたぁぁぁ!」
 人里の病院に、三人の元気な声はよく響いていた。
 
 
 
 目の前で倒れ伏せた、肌も服もボロボロの探し人に対し、こころはあくまでも冷静だった。
 「おい、化け猫。……ダメだ、気絶している。」
 一方、付き人だったはずの石をぶち当てた犯人は、かなり動揺していた。
 「ど、どうしよう。とにかく下山?いや人里に連絡を先に……ああ、雲山がいない!」
 「落ち着け。お前の与えた傷は大きくない。ただし――」
 それも他と比べたらの話だがな、と言いかけてこころは口をつぐんだ。
 顔は青白く、腕には大小いくつかの熱傷、足は擦り傷だらけ、体中は泥だらけ。医療の知識が無いこころにも、これはまずいと一目でわかるほどだった。
 「……他が心配だな、応急処置だけして下りるぞ。手を貸せ」
 「さ?さ、サーイエッサー!」
 口調すらも崩れ去った一輪は、こころの言われるがまま、水を汲み、傷口を洗い、橙を抱えて人里の病院へと走ったのだった。
 
 
 
 

 「気は済んだか?」
 「……ええ。もう大丈夫よ。」
 「あの、大丈夫ですか。だいぶ消耗してますが」
 「お気遣いありがとう。もう大丈夫よ」
 心なしかさっきより一輪の動きにぎこちなさが増えた。同時に目の死んだ顔でぶつぶつと『もう大丈夫』と繰り返している。
 「本当にそうなんですか……?」
 「気にするな。天狗より規範に厳しいやつだから、しょうがない」
 そして規範に厳しいために、一輪は落ち込んだからというだけで仕事を投げ出すような人物でもなかった。三十分もすればすぐに元に戻るだろう。
 「まあ今は放っておけ。さて、商談を始めようか」
 「えっ」
 こころは一輪をどかし、そのぶんだけ椅子を橙のベッドに近づけた。手を伸ばせば橙の顔に届くほどの距離だ。
 「しょ、商談って、やっぱり」
 「ああ、その通りだ。お前が起きなきゃ話にならないからな。結構退屈だったよ」
 こころの周りの面がふわりと浮き上がる。その面の目にもちろん生気などなく、ただ虚ろに橙を見つめる。
 橙はその面たちから目を逸らしつつ、こころに向かって言った。
 「あ、あの、助けて頂いて嬉しいのですが、私の持ち合わせは……」
 「ほほう?よもやただで助かったと思うてか。我々はそう甘くはないぞ」
 こころの周りの面は次々と増えていく。十。二十。三十。その全ての目はまっすぐ橙を射抜いている。
 心はおもむろに手を伸ばし、面を一つ手に取る。怒りの表情、般若だ。それを手でいじくり回す。丁寧に、丁寧に。
 その動作を一つするたびに、橙の肩はビクリと震えた。畏怖、恐怖、綯交ぜにされた感情が胸の内で叫ぶ。逃げろ、と。
 「……い、いくら、ですか」
 しかし、橙は式神だった。八雲の九尾の式神であった。ここで逃げてしまえば、名に傷がつくのは橙だけではない。そんな式を育てた主人、八雲藍の名にすらにも傷が入るやもしれない。