翌日。
こころは命蓮寺の大部屋で誰よりも早く目が覚めた。心の中が勤労意欲でいっぱいだ。胸の上に乗った邪魔な足を払いのけ、上体を跳ね起こす。
ついでに足の主である、今日の食事当番を文字通り叩き起した。残酷ではない。これぐらいやらないと起きないのがこの船幽霊なのだ。
「おはようございます」
「あ、おはようこころ。ふわぁ……」
横で寝ていた村紗水蜜が起きた。村紗の布団だけが激しくずれている。
村紗は寝癖が悪いからあまり一緒に寝たくはない、とは命蓮寺メンバーの実に九十パーセントが言っている事だった。
「どしたの?今日はいつもより早いじゃない。」
「今日は記念すべき日だからだ。さあ、当ててみよう」
「え?うー、結婚記念日?」
「違う」
「建国記念日」
「二文字変えても無駄だ」
「むー。正解は?」
「感情記念日だ」
障子を勢いよく開ける。命蓮寺の寝室は東向きだ。開いた視界に強烈な朝日がしみる。こころは妖怪ゆえに太陽が好きではないが、こういう朝日は嫌いではなかった。
「あばば、成仏する」
邪悪な船幽霊に効くし。
「うあー、透けるー、足から消えてゆくー」
「少しぐらいならよいではないか」
「地味に私に冷たくない?」
「誰のせいで体が冷えていると思う?」
幽霊は揃って体温が低めである。夏真っ盛りの今はたしかに助かるだろうが、夜通し乗せっぱなしでは流石に妖怪とて風邪を引くのだ。
「ああ、ごめんごめんご。代わりに朝食は好きなものを作ってやろう」
「白玉饅頭」
「お前の座右の銘か何かか、それは。五連続それじゃない」
「じゃあ、カレー以外」
「了解、ハヤシライスだね」
「それは八連続だぞ」
そんな会話をしながら、二人は朝の運動をすませた。朝靄のかかった幻想郷。その中で行う体操は、清々しい一日を始めるのには欠かせないものだ。こころは鼻がつんと痛くなるのを感じた。軽くなってきた体に命じる。今日はこき使うから覚悟しろよ、と。
「さって、体に血がめぐってきたよ。気合入れて朝の当番やっていこー」
「おー」
「うーん、元気が足りぬ。もう一回!」
「ぽんぽかぽんぽん、おー」
「なんで獅子舞かぶったの?」
ことことと命蓮寺の朝を告げる鍋の音。その横で、丁寧とは言い難い早さで下ごしらえを行う村紗水蜜。ぶっちゃけ雑だ。手伝いをしながらこころはつぶやいた。今日も幻想郷に朝が満ちる。
「おはよう、ムラサ。と……あれ?こころじゃない。おはよう。」
そこへしっかりと整えられた青髪の女性がやって来た。命蓮寺のもっとも敬虔な尼僧、雲居一輪だ。
「おはようございます」
「おはよーさん、一輪。おや、てっきり響子が一番だと思ってたが」
「ライブ帰りなのよ、あの子。雲山クッションにして寝てるわ。」
「人気だねえ」
水蜜は話しながらもテキパキと作業をこなし、鍋に叩きつけるように蓋をした。これでも美味しい料理ができるのだから、幻想郷とは不思議なものである。
「遅くまで仕事とは偉いな。……今度バックダンサーを打診してみるか。楽しそうだ」
「いいわね、それ。ついでに派手に炎の演出とかも入れましょう」
「燃え上がれ怒りの焔!」
「やめてやれ。ヒーローショーになる」
水蜜が隣の鍋を見る。その鍋から漂う、みりんと醤油の香りは食欲をそそった。ぐつぐつという音を美味しそうとは思わないが、そろそろお腹がすいてくる頃だ。
「ふむ。つまむか」
「やめなさい。……そういえば、なんでこころがこんなに早く起きてるの?いつも割と遅くまで寝ているのに」
「さてな?感情記念日らしいぞ」
「へ?」
「うん?ああ、そうだ。おまえたちにも聞いておこう。」
こころは懐からキータンのお面を取り出した。こういう時のために習っておいた商売口調を披露する。
「どうじゃ、このお面を買わんかね?今なら五銭でええぞい」
一輪が額に手を当てた。
「マミゾウめ……また適当に何か吹き込んだのね」
「ふぉっふぉっふぉっ、随分丁寧な作りの狐面じゃのう。しかして、その面はいかな効果を持つ物じゃ?」
「ム、ムラサ?」
「子供に人気になれる」
「あ、やべえちょっと欲しい」
「ムラサ!?」
「あと、三尾の狐に会えるらしい」
それを聞いた瞬間、二人はピタリと止まった。水蜜がそろそろいい具合になったであろう隣の鍋の火を止め、皿に盛り付けていく。
「捨ててしまえそんな危険物」
「えー、たった三尾だよ?たまにマミゾウが喧嘩売られてるあいつ、九尾じゃない。それの三分の一だよ?」
ちなみに喧嘩を売っていても、一瞬目を離すと何故かお茶しているのが日常である。しかも和気あいあいと話しているのだ。そしてその内容は大体が狐の愚痴なのだった。
言われたからその通りやったら文句を垂らされたとか、冬眠と称して明らかに一日では無理な量の仕事を押し付けられたりとか。それを話している時の狐は誰がどう見ても哀れにしか見えないことだろう。
そのせいでこころは狐を軽視していた。だが、一輪がたしなめる。
「こころ、九尾がおかしいだけで三尾って相当強いのよ?天狐は四尾なんだから」
「天候?」
空が強いのは当たり前だろう。雨一つで人々の仕事を増やし、雷一つで新しい妖怪を作るのだから。こころは思ったが、どうも違うらしい。
「天狐。千年ほど生きた狐だ。四尾の狐の時点からそう呼ぶんだけど、四尾で既に神通力を使える。九尾ともなればそりゃあもう天災レベルさ。」
「つまり三尾はその手前か」
なるほど危険物かもしれない。だがこころはこの面を捨ててしまうわけにはいかなかった。これはこころにとっての希望と言っても過言ではないものなのだから。
「そうね。だからその面はマミゾウに返してきなさい。」
「マミゾウに?違うぞ。これは私のバイトだ」
その横でご飯が盛り付けられていく。一つだけ多く盛り付けてあるのは自分の分。水蜜のささやかな楽しみである。だが増やされた量はささやかではなかった。元の入る量の三倍近く白米が盛られたその茶碗を、器用に盆に載せる。
「ええ?三尾が寄りつくような面を誰が渡すのよ。狐の方?」
「いや、胡散臭いお面屋だ」
「なるほど、スキマ妖怪は最近お面屋を始めたのね」
「違う、お面屋だ」
「じゃあ正解でしょ?」
「うーむ。」
素直に名前を聞いておけば良かった。こころは思う。なんだがそれでもお面屋は『お面屋』で押し通しそうだが。それに胡散臭さはスキマ妖怪と五十歩百歩なのだから、それでいいような気もした。
「じゃあ、いいかそれで。で、買う?」
「「買わない」」
「くっ」
声を揃えて却下される。面売りの道は前途多難、茨の道だった。
だが千里の道も一歩から。一歩踏み出せたなら千里を歩くなど容易いものだ。その一歩を繰り返せば良いのだから。
しかし道を歩くにもエネルギーは必要だ。こころは鳴り始めたお腹をさすりながら、盛られた白米を見つめた。
「よーし、出来たぞ朝ごはん。みんな起こしてきてくれ一輪。どのみち寝てるのは御本尊様ぐらいだろうが」
「そういえば聖様起きないわね。何やってるのかしら」
寺で最も早く起きる人物は言うまでもなく聖白蓮である。食事当番よりも早く起きる修行者はあの尼僧くらいであった。
「うん?忘れたのか一輪。聖なら昨日道教に殴り込みに行ったではないか。」
「ああ、泊まり込みだったわね。」
噛み合ってないようだが正解である。昨日お面を持ってこころが帰ってきた時には、既に聖が『今日こそ決着をつける』という書き置きを残して出ていっていた。そして二日三日してから『今日も決着がつきませんでした』と、こころなしかつやつやの顔で帰ってくる聖を迎えるのが寺の日常である。
ちなみにこころは一度気になって見に行ったことがあった。だが忘れたことにしている。面霊気にだって良識はある。
「なら寅だけ起こしますか。今日はナズーリンは……」
水蜜が丁寧に上空からみそ汁を注ぎつつ答える。
「来るってさー。今日はちょっと大事な日らしいからね。」
「ふーむ、どこも忙しいのだな。」
人々がせわしない。それは今に始まったことではなかった。
もっとも、その理由はすぐに思いつく。夏祭りだ。
幻想郷では季節に関係なく、祭りや宴会が頻繁に行われているが、夏祭りはその中でも二、三を争う規模の祭りである。
その熱気はまた凄まじく、人妖精鬼問わず、人里をメインに熱狂する、なかなかにとんでもない祭だ。時期をお盆とひっかけているので幽霊的にさらに大変なことになる。
命蓮寺の仕事はそんな隙だらけの人間と魑魅魍魎が何事かを起こさないよう監視することであり、毎年その方法に頭をひねっているそうだ。そしてそれに疲れた時、決まって聖は道教に殴り込みに行く。つまりは、そういう事だ。
「あんたは今日どうすんの?」
「この狐面を売りに行くさ」
「話聞いてた!?」
そして祭りの前であるがゆえに、面を買う人妖は多い。こころとしてはこのチャンスは願ったり叶ったりだ。なので止まるわけにはいかなかった。
「やめときなさい、一輪。ことお面に関してこいつは止まらんよ。」
「で、でも三尾の面はまずいわよ!姐さんに迷惑がかかる!」
水蜜は頭を掻いた。
「しゃーないな、もう。ついてってあげよーか?」
「いいのか?」
「ああ。どうせ大したやることもないだろうしね。」
「いや、修行」
「うっ……見逃してくれ一輪。」
「ふう。いいわよ。良かった、監視がつくなら安心ね。」
一輪が胸をなでおろす。だが次の言葉を聞いた瞬間、彼女は耳を疑った。
「そうそう。だからいってら、一輪。」
「……ん?」