そう、相対的なのだ。何もかもが。
私の常識は、お父様の常識じゃない。
私の知識は、お母様の知識じゃない。
私の認識は、お姉様の認識じゃない。
この世に絶対がそもそも存在しないと気づいたのは、私が生まれてちょうど二ヶ月経った頃だった。
そしてその日は、私の忘れられない日となった。
吸血鬼は元々知能という点でかなり上にいる種族だが、私はそこからさらに外れていたそうだ。
生まれて二日目で言葉を発し、五日目で羽根もないのに空を飛び、二週間も経てば従者たちと対等に戦っていた。その有り余る成長速度は、両親ですら少し恐れを抱いたらしい。姉はただただ喜んでいたが。
二十日目になって、私は本を読み始めた。
紅魔館の誇る大図書館。そこには、その頃にはすでに、吸血鬼の一生をかけても読み切れないであろう大量の書物があった。
同年代の友人がいない――友人ではなく同年代がいなかったのだ――ゆえに暇を持て余していた私が、従者全員でも整理が追いつかず、積まれたままになっていた本たちと友達になるのはそうかからなかった。
三十五日目、私は八つの本の塔を読み終えた。
図書館の本には、魔本もたくさんあった。
魔本とは、ただ魔法が書いてあるだけの本ではない。読む者から血を吸い取り字に変えるもの、生者には決して見えないもの、知恵が無ければ開くことすら叶わないものだってある。
なかには、開いた瞬間、死に至る呪いを撒き散らすものすらもあった。けれどどんな魔本も、私に読めないものはなかった。
簡単だ。力試しもトラップも、みんな壊してしまえばいい。
それは魔法使いにとっての敗北であり、悪だということには、結局パチュリーが来るまで気付かなかった。
四十二日目。私はある一つの塔を見つけた。
その塔にある本はどれも面白くて、私はこの日、初めて夜ふかし(吸血鬼だから昼ふかしというのか)をした。
孔子。ソクラテス。シッダルタ。魔本はどれも似たりよったりの事ばかり書いている、と少し飽きが来た頃だったから、考え方に比重を置いたこの本たちはすごく新鮮だった。夜が過ぎ朝が来て昼になって、夕日が私の翼を焦がしても、私は読むことをやめなかったのだ。
後になって、その塔を見つけたのは姉の『自分と遊んでくれない妹』に対するイタズラだったと知った。つまらない本しか読めない運命に妹を引き込めば、自分のもとに帰ってくるだろう。そう考えたらしい。
けれど予想に反して、私はその本をも楽しんだ。それが姉は許せなかったのだろう。その日初めて姉妹喧嘩をした。本来は結局得をしている私にその喧嘩を買う理由なんてなかったのだが、当時の私は行動を制限されていたという事実や、何より自分が好きになった本をつまらないと一蹴されたのが我慢ならなかったのだ。目先の怒りに飛びつき、口論からやがて取っ組み合いになり、そして紅魔館の一室が吹き飛んだ。
普段寛大な父もこれは静観せず、私達二人を等しく叱った。けれど私達は口先だけで謝り、仲直りの握手で互いに手を潰し合ったのを覚えている。もちろん父から更に叱られたのは言うまでもない。あの時の父と、その後ろにいた母の形相は、今でも時折夢に見る。
今でもこのことを思い出すと、ほんの少し姉にむかっ腹が立つのだが――思えば、私は姉に感謝すべきなのだろう。とにかくまずは本棚に入れようと、ジャンルではなく全てアルファベット順でソートしていた紅魔の大図書館で、『哲学』を集めた本の塔に触れられたのはあれが最初で最後だった。もしあれらを読まなければ、今ごろ私は495年の退屈で気が触れていただろうし。その運命に、というと姉が調子に乗るから言いたくないが、ともかく感謝しなければならない。良かったのか悪かったのかはわからないけど。
それに、手加減無しの本気でぶつかり合えたのも、その日が最後だったから。
四十四日目。いつものように図書館に入ると、どこからか一冊の本が落ちてきた。
それ自体は珍しくもない。整理に明け暮れる従者たちがつい魔本の効果を発動させ、一帯全てと共に転移されることなどよくある話だった。そのたびに父の友人だという痩せぎすの男が呼び戻したり、作り直したりと忙しなく働いていた。
時には読むついでに配置を覚えていた私が、従者に気づかれる前に本をこっそり戻したりしたものだ。けれどこの日は、本を戻すことはなかった。
『付記』
本の表紙にはただ一言、そう書かれていた。
四十五日目。私はどうにかこうにか、その本を読み終えた。
その頃には一日で本棚一段分の本を読めるようになっていた私が、たった一冊にこれほど時間がかかった理由は一つ。トラップを壊し続けていたからだ。
透明化、意識誘導、自動文字削除、火焔、雷撃、衝撃、五感異常、筋弛緩、記憶処理、即死の呪い。開けば開いた分だけ出てくるトラップ魔法の数々。太陽の光が出始めた時は流石に死ぬかと思った。それでも私は諦めず、好奇心を杖に、力を盾に。ページを一枚、一枚とめくり続け、ついに読み終えたのだ。なのにそれほどまでに苦労して読んだ内容は、全くの白紙だった。
当然だ。それこそがこの本の目的なのだから。
つまるところ、この本は恐ろしく悪質な、ただのいたずら本だった。意味深なタイトルで惹きつけ、ありとあらゆるトラップを配置し、思わせぶりに振る舞っておいて何もない。私の上に落ちてきたのも、本の最後にあった「魔力持ちを選んで定期的に転移する魔法」によるものに過ぎない。なまじ魔法を身につけたりしているとますますハマりやすい、ある意味トラップそのものの本だったのだ。
まんまと引っかかった私は、怒りのままに本を破壊しようと手を握る――寸前に、あることに気づいた。
そして私は庭へ向かった。
庭の木々を全て薙ぎ倒し、地を抉り、雲を穿ち。私は確信した。
強くなっていたのだ。トラップに使い続けていた、破壊の力が。
その力について、誰かに相談したことはなかった。あらゆるものを否定し、消滅させ、破壊する絶対の力。その恐ろしさは生まれて間もない私でも理解できた。
とある小悪魔が魔本に傷をつけてしまったときのことだ。父の友人はそいつが二度と図書館に入らないようにと、法界の北の果てに追放した。しかしその小悪魔は並外れた知識欲をもって、法界の封印、魔界の扉を食い破り、再び図書館へと帰ってきたのである。
だが二つの壁を無理に抜けた代償は大きく、現世の地を踏む頃には、その小悪魔は自我のない怪物となっていた。思い出も、言葉も、その姿へ至る原因となった知識欲すらも消え去り。ただ紅魔館を襲うだけの肉塊となったそれに、父の友人はただ一人で対峙し、1047の魔法を組み合わせ完全に消滅させたのだった。
あの瞬間を思い出す。あの顔を思い出す。
肉の向こうに見えた、歪んだ顔を。
何も出来ないのだと理解し、救われないのだと悟り。
それでも生きようと必死に足掻いた顔を。
その全てを、無慈悲に奪い取ったあの消滅魔法を。
本能の恐怖。
それを手にしたまま。
逃げ道なんて何処にもない。
そうだ。
基準がないなら、指標がないなら、相対の反対が無いのなら。
私が絶対になればいい。
私は信じていたのだ。きっと私の不安はみんなも持っている。だから私が絶対を作れば、みんなは安心するのだと。これはみんなの為だと。
そんな子供じみた夢を、
私は、
私の力は、
叶えてしまった。
姉の戦い方はシンプルだ。
速さ、力で圧倒し、そのまま反撃を許さずねじ伏せる。細工や環境など考慮しない。夜の王を名乗るだけのことはある、完全な正面突破。それは毎夜、戦闘訓練を受ける姉を見て知っている。
高速かつ、高火力な姉の攻撃は、受けることもかわすことも出来ない。
だから、受け流すしか無い。
「……!!」
だから、私は。
そこに攻撃を重ねる。
「……やるわね」
少し離れたところで、姉はふわりと止まった。その頬からは、三本の傷がまっすぐ引かれている。
この世に絶対は存在しない。
それは絶望的で、残酷な真実。
常に頼れるものなど、何も無いという真理。
だが、知ってしまえば、ただそれだけだ。
理解すれば、受け入れさえすれば。
それは対処できる事実となり、生ける者の糧となる。
つまり――あまりにも恥ずかしい事だがはっきりさせよう――私が真理だ正解だ、この世が必死に隠していたものを暴いてやったのだと雀躍し、満足しきっていたそれは。
単なる一つの常識だったのである。
「ずいぶん手ひどくやられたわ」
剥がれ落ちた生皮は床を伝い、排水溝へと流れてゆく。
いかに吸血鬼とて、再生能力には限界がある。破壊され、再生し、破壊され、それを繰り返していると、いつしか身体がただ朽ちるだけの灰になる時がやってくる。
ただし、それは再生が不可能という意味ではない。再生するには、あまりにも既存の構造物が引っかかりすぎているだけだ。ならば水で洗い流してやれば良い。そうすれば私達は流水で力を失う。その緩んだところを構造物が流れ、外へと押し流される。
「おまえが手加減なんかするからだ」
右肩の断面から、ずるずると蝙蝠が這い出てくる。それは腕の形を取り、やがて人の肌へと作り変わる。
このことは、どの本にも載っていなかった。自分と同じ存在を作る魔法を覚え、一つ一つ試していた頃。ひょっとすると、絶対に壊れない物はもう持っているのかもしれない。そんな期待を込めた、小さな実験の小さな成果だった。
「だって、あなたは本気じゃなかったもの。私が本気で挑むわけにはいかないでしょう?」
「……本気でやったら」
「殺してしまうから?」
張り切った湯に、天井から水滴が一つ落ちる。
小さな実験は、今も続けている。
それは私が失敗を重ねていることの証拠だ。
壊れないものなど一つもない。
小さな成果は、ただ私が、壊さないことができるというだけの意味。
「……まだ、分からなかったのかな。あれだけ傷を負って、あれだけ血を流して。まだ、自分が死なないって思ってたっての?」
「もちろん」
「へえ」
右腕を握り、軽く振る。もう、怪我は見つからない。
今度は、大きく後ろに――指先を伸ばし――背後の姉へ目掛け――
「……」
「死なないわ。私は、あなたの姉だから」
その爪は、小指の一本で止められていた。
まるで幾重にも踏みしめられた山のように、それはピクリとも動かない。
「……自信ばっかりだ。中身がないわ」
「あら。それじゃ、指切りでもしましょうか」
「東洋の呪いなんか吸血鬼に効くの?」
「案外効くわよ。御父様にもやってみたわ」
「なんて言ったのさ」
力を込め、震えていた私の手へ、そっと姉の手が覆い被さる。柔らかな指が一つ、また一つと曲げられる。その度に腕の緊張は解けていく。やがて姉が手を握る頃には、私もそれを握り返すような格好になっていた。姉が立ち上がる。私の手を引く。そのままに、姉へついていく。凪いだ水面が大きく揺らめく。
もう一度、水滴が湯を叩く。
「『明日は一日、私と遊びましょ』」
「なんだ。道理であんなに自信があったんだ。御父様が帰ってくる予定だったのね」
「違うわよ。これは三日前の約束だわ」
「三日? 一昨日御父様が居なかったのは、この地域の怪物との会議って聞いたけど」
「そんなふうに言ってたの? 嘘が下手ねえ。御父様が居る場所に、他の怪物が来るはずないでしょうに」
「そうなんだ。……ねえ。どんな話をしたの」
「
吸血鬼はしばしば、そこをハンターに狙われ、命からがら殺し返したとしても、その後すぐに共倒れてしまうという結末を迎えていた。
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