割れんばかりの歓声という表現がある。それはあくまで比喩であり、本当に声が何かを割るなど、幻想郷でもまずお目にかかれない話だ。無いとは言わない。
 だが、この声は違う。たったひとりの男が出したその声は、確かにその部屋の壁にひびを入れていた。だがお構い無しに男は叫びつづける。
 「これが面の到達点!あの小鬼が見せた力よりも遥かに魅力的!これこそが…これこそが私の追い求めていた姿だ!う、写し絵!写し絵の箱を出さなければ!」
 「なっ?」
 こころは面で顔を隠した。急に目の前の人間が叫びだし、リュックの中身を全力で探っている。逃げ出したいのに逃げられない。『恐怖』に体が縛られていく。しかし男は気にせずにリュックを漁り続け、天狗の持っていた箱と同じようなものを取り出した。
 「あ、あごちょっと引いてください!キレイにお撮りいたしますので!」
 こころはあごを引いた。キレイ、にひっかかったというよりかは命令に従ったというふうだった。二、三度シャッター音が響く。と思ったら箱と角度を変えてもう一度。その度にされるキレイに撮るための命令に、こころは素直に従うしかなかったのだった。
 
 
 十分後。
 「ふぅ…年甲斐もなくはしゃいでしまいました。箱を七つ使いましたが後悔はありません。ありがとうございます」
 「……おう。」
 全て終わったあとに立っていたのは、すがすがしい顔をした妖しい男。こころなしかさっきよりもつやつやしている。こころは体育座りをしていた。疲れた。
 「ホッホッホ。大満足です。おお、そうだ。アナタに御礼を差し上げなければ。どうぞ自由にお申し付け下さい。ワタクシのできる範囲でお応えしましょう。」
 「……」
 さっきよりもわずかに下手に出ている男を前にして、こころは考えた。やられたことと言えばあの天狗と同じ事のはずなのだが、何故かはるかに不快感が強い。これに見合う対価といえばなんだろうか。
 「……情」
 「ん?」
 こころはとっさに思いついたものをそのまま口に出した。わずかに逡巡する。目の前にいるのはまだ得体の知れない人間である。本当に言っていいのだろうか。
 だが、冷静になった頭に怒りが舞い込む。私はただここへ来ただけなのに、なぜこんな目に遭わないといけないのか。目の前の男もそれに見合うだけの苦労を味わうべきではないか。いや味わえ。
 その思考は逡巡を上回った。立ち上がりながら言い直す。
 「感情をよこせ」
 「えっ」
 流石に驚いたのか、男は一瞬口角を下げた。さっきから続けていた手もみをやめたのは困惑の印だろう。
 だが、それは刹那の出来事だった。男がすぐに笑みを取り戻す。
 「ああ、そういうことですか。ほほう。なかなか絶好のものを選びましたね。ワタクシなら容易に叶えられます」
 「容易?簡単だというのか、感情を得るのが」
 「ええ。申し遅れました。ワタクシは『しあわせのお面屋』という者です。古今東西、しあわせのお面を求める行商人…」
 「しあわせのお面……」
 聞いたことのない響きだ。こころにとってお面は感情を得るためのものであり、お面それ自体に幸せがあるとは到底信じられなかった。
 「ワタクシの力をもってすれば、感情の一つや二つ、増やすことは容易いでしょう。どうです?やりますか?」
 「……ふむ。」
 こころはお面屋の顔を見た。いくら胡散臭いといえど、面の力を見抜いたあたり実力は相当なのだろう。だが信用に値するかというとそんなことは無かった。
 さっきの撮影会のせいでこころからのお面屋への信頼は地を通り抜けマントルに到達していたのだ。それに、得体の知れないものの力を借りて得たものが本当の感情だろうか。こころは迷った。
 「おや、もしかして人の力を借りたくないとか?心配いりませんよ。基本的に動くのはあなたです。私はその手助けをするだけ…」
 「……」
 そのささやきがこころの背中を押した。奇妙な目をデザインした面をしまおうとするお面屋に言う。
 「……やる。感情のためなら何でも。」
 「さすがは面霊気!ワタクシの娘!」
 お面屋の中では既に面霊気=娘という認識に書き換えられたらしい。よほどお面の妖怪が気になったようだ。こころが一歩引く。
 「だが、いったいどうするのだ?私は大したことは出来ないぞ。」
 そう言うと、お面屋は背中のリュックを探り出した。また箱を出すのではないかと身構える。
 「簡単なことです。まずはこれを見てください。」
 だが、お面屋が取り出したのは狐のお面だった。自分も狐の面を持っているが、その面は自分の白い面とは違い、鮮やかな黄色で塗られていた。そして装飾がなく、本来の狐により近い顔をしている。
 「それは?」
 「『キータンのお面』という面です。これを手に入れた地域では、子供に人気がありました。またこのお面をかぶると三尾の狐に会えるという言い伝えもあります」
 「三尾……弱そうだな」
 こころが知っている中で最も強そうだった狐は、スキマ妖怪の横についていた九尾だった。それに比べるとどうしても弱そうに見える。
 「さて、どうでしょうか?とりあえずどうぞ。」
 男がこころにお面を手渡した。
 「あなたにレンタルいたします。これを誰かに売ってきていただき、代金を私に納めていただきます。そうしたら次の商品をお渡しする」
 「ふむ?いくらで売ってもいいのか」
 「構いません。構いませんが、納めていただくお金は固定です。このお面なら10ル…五銭ですね。」
 五銭。外の価値にしてだいたい千円程度である。少し高いようだが、しっかりした作りのこのお面なら相応の金額だ。
 「五銭か。分かった。だが、これと感情にどんな関係があるのだ?ただお前の商売を手伝っているだけのようだが。」
 その質問をすると、待っていましたと言わんばかりに、男が一層笑みを深くする。
 「そんなことはありません。ワタクシは『しあわせのお面屋』。これが終わったあと、あなたは感情を手に入れていることを約束しましょう。」
 「胡散臭い……まあ、やると言ったからな。」
 「その意気ですよ。では、ついてきてください。」
 お面屋が面をかぶる。まるまるとした顔につぶらな瞳。全体は茶色で山形だ。きっと普通の人間がつければ、それはそれはお茶目で可愛らしく映るだろう。だがお面屋はその胡散臭さゆえ、そのお面が絶望的に似合っていなかった。
 「……」
 「どうしました?いつまでも待ちますよ」
 「……いや、いい。」
 「?」
 首を一度傾げてから、その面をかぶったままお面屋が下に降りていく。その後についていくこころ。
 「なんの意味があるのだ、その面は?」
 「ちょっとした意味があるのです。あなた、下の扉を通ってきたのですよね?」
 「それがどうした?」
 「あの扉は少々特殊でしてね。前時代の遺物ともいうべきものでしょうか。あちら側から来ると自動で閉まるのですが、こちらからは自動で開かないのです。」
 「……そういえば閉まっていたな。なら手動で開けるしかないか。」
 「ところが、あの扉は非常に重たい。ゴロン族…力自慢の者達でもびくともしません。」
 「何?では帰れないではないか。」
 「ですから、工夫します。」
 そう言って、お面屋は扉を見た。二人は扉の下へと着いた。改めて見るとその扉はまるで自分はという絶対の自信を帯びているかのようにその口を閉ざしていた。
 「どうするのだ、お面屋。」
 「決まっているではないですか。下がってください。」
 こころが後ろにステップを踏む。お面屋は扉の間に細い指を差し入れた。
 「折れるぞ」
 「まあ、見ていてください。」
 すると、ガゴゴゴという何かが動く音がした。なんと、扉が開いている。お面屋の細身の体が軽々と扉を動かしているのだ。そのまま全て開ききり、お面屋が扉の向こう側のスイッチを押す。ん?あったっけスイッチなんて。
 「お待たせしました。こちらから出ればアナタの世界に帰れるでしょう。」
 「……何者だ、お前。」
 「よく言われます。ただのお面屋ですよ」
 「いや、ただのお面屋ではないだろう」
 「では、健康マニアのお面屋です」
 「……まあ、もういいか。ありがとう。では、さようならだお面屋。」
 そう言い放ち、こころは扉へと歩いていった。お面屋は最後まで笑みを絶やすことなく言う。
 「ええ、さようなら。ワタクシの娘。」
 足のスピードを早める。こころは思った。次に来る時はもっと武装するか、誰か連れて行こう。そうしよう。後ろからお面屋の声が聞こえる。
 「大丈夫!アナタならきっとできます。自分の力を信じなさい…信じなさい…」
 無視して足を早める。もはやほとんど走りだ。だが、出る直前で足を止める。
 「ああ、言い忘れていた。お面屋よ。」
 「はい?何でしょう。」
 
 
 「次に来る時は、白玉饅頭を用意しておけ」