よく生きてたな、私。というか私ってそんなにみんなに心配かけてたのか。これはいよいよ体を鍛えなきゃいけなくなってしまった。
起きたら美鈴が土下座してたり、その上にレミィが座っていたり、フランから半端ない魔力を感じたり、私と咲夜がどうにかとりなしたりと、バタバタしてたらいつのまにか日が落ちるほど時間がたっていた。おかげでようやく数十年ぶりに魔法抜きの手足の感覚が戻ってきた頃だ。忘れないうちに決意のメモでもしておきましょう。
二度もぶっ倒れたということで二倍に伸びた見舞いの列が途切れてきた頃、私はそう思い立ってベッドサイドテーブルに手を伸ばそうとした。
しかしここで問題が生じる。
ベッドサイドテーブルがあるのはベッドの左。そして美鈴が握って潰してしまったのは左手。しかも左手はがっちりギプスがはまっている。
つまり、そのまま手を伸ばしてもサイドテーブルからメモ帳やペンを取り出すことはできない。
かといって右手を伸ばすには、上体を捻らなきゃならない。
下手に動けば十年単位の筋肉痛になると警告されている今、体を捻るのはかなりリスクが高い。
ずっと見舞い人に向けていた首でさえ若干痛いのだ。腕や脚なんかの末端ならともかく、腹筋や体幹とか体の中心が筋肉痛になるのは相当まずい。息するだけで胸から痛みを感じるようになってしまう。なるほど、これが恋とか言ってらんないからね。ただでさえ喘息なのにこれ以上肺に異常はいらないわ。
そして頼みの綱である魔法はというと、まさかの未だ使用不可である。
さすが私のディゾルブスペル。効力効果時間精神ダメージ全てにおいて非常に優秀だわ、こんちきしょう。今度からアンチマジックボムでも作ってから発動しなきゃ。
ってしまった、メモすることが増えた。
仕方ない、頭にストックしておくか? いやでも、それじゃ決意にならないしな。こういうのは考えた時が吉日、それ以外は凶日、当日の私が決めるものって言うし。
せめてもう一人だけでも見舞い人が来ないだろうか。そしたらメモもペンも取ってもらえるのだが。
そんなことをぼんやり考えていると、何たる偶然か、ちょうどドアが開かれた。なんだか今日の私、ずいぶんツイてるわね。まるで小説みたい。これもレミィのせいかしら?
「ああ、ちょうどいいわ。ちょっとそこのあなた……っ!」
けれど、ドアのところにいたその子を見て私は凍りついた。
コアと同じぐらいの身長。
腰から生えた、細く鋭い尻尾。
小悪魔の制服である黒いスカート、白いシャツ、黒いベスト。
頭には小さな羽と、輝くような――セミロングの銀髪。
「あ、はい、なんでしょうか?」
コアの言うとおりなら、この子に違いない。
そこにいたのは、まさしく私たちが探していた小悪魔――インに間違いなかった。
「これでよろしいのですか?」
「ええ。その紙と万年筆でいいわ」
寝転んだまま、震える手で二つを受け取る。
いきなり探し人が出てきて少し驚いたが、よく考えれば自らの主が倒れたら普通は見舞いに来るか。来なかった小悪魔もいるが(本棚列の数と合わなかった)、多分人の多さに気を使って明日に回したのだろう。別に全部今日でも良かったけれど。
「ありがとう」
「どういたしまして。ところですみません、パチュリー様。その体で書けるのですか」
おいおい、何を言ってるんだね君は。魔法でちょちょっとやればこの程度……
…………
……未だ私は、魔法無しの生活には慣れていないらしい。持ったあとどうするかなんて魔法しか考えてなかった。書くどころか万年筆の重みに指が耐えかねそうだし、紙にすらそこに確かな存在を感じる有様である。というかそもそも体起こせないし、今、腕一本だし。疑問持つのも当たり前か。
あれ、無理じゃん。どうしよう。
「あのう、もし書けないのであれば代筆しましょうか」
受け取ったまま固まっていると、インがすっと手を挙げた。何この子、めちゃめちゃ普通なんだけど。目が死んでたからちょっと警戒してたけど、予想の三倍普通なんだけど。誰よ小悪魔全員カタギじゃないとか言った奴。後で締め上げてやるわ。
ってそれコアじゃない。またあの子の余罪が増えた。それもメモしてもらおうかと思ったけど、まあそれは決意じゃないし、後で自分で書きましょう。それ以外の罪は何って問われたら私のことまでバレかねない。
「ならお願いするわ。はい」
「わかりました。それでは、なんとお書きしましょうか」
「『筋肉+5kg』」
「はい。…………」
「何よ、なにか言いたそうな顔して」
「いえ、なんでもありません……っ」
万年筆の小気味良い音がピタリと止んだ。インが驚いたような表情で私を見ている。
「……パチュリー様、今、私の顔が見えたんですか」
「はい?」
突然何を言い出すのだこの子は。さっきから顔見て話してるんだから、そりゃ見えてるに決まってるだろう。
「当たり前じゃない。たとえ偽装魔法をかけていたってあなたの……表情くらい分かるわよ」
まだ顔は分からないけど。
まあ、それでも表情はわかるから。嘘は言ってないとも、嘘は。閻魔にだって胸を張って言えるとも。
「……そんな、今まで気づかなかった? どうして? 効力切れ、過剰負荷、魔素不足、位相干渉、空間異常、認識災害……いや、……そうか」
あれ? イン? 何で俯いて目を潤ませているの? そんなに顔と表情を言い換えたのが不味かったのか。
やばいやばい、えーっと。まずは落ち着かせないと。
「大丈」
「パチュリー様。私、ここに来れて幸せでした」
「待って」
辺りの空気が、静かな雰囲気へと変わっていく。
窓から入る斜陽が、彼女の顔を朱く照らしている。
全てを許したような、そんな微笑み。
春風に吹かれた銀の髪は、まるでドレスのヴェールのように靡いていた。
待って。何だ、なんの琴線に触れてしまったんだ私は。何で展開してもいない物語が収束に向かってるの、どうしてこの子は一人で納得してるの? 分けてよ、その納得。
「見つけてくれたのが、貴女で良かった。私を知らない貴女なら、きっと躊躇いは無いでしょう」
「その、イン。説明して」
「輝針城八階、薬箪笥の『ろ』。全て終わったら、そこを開けてください」
やったあ、説明をもらった。
じゃないけれど。
「もちろん説明いたします。ですが、恐らく今は時間が足りません。理由は必ずお教えしますので、パチュリー様。今は一つだけ、覚えていてください」
そっかあ、足りないのかあ。……
いや、無理か。ちくせう、ディゾルブスペルめ。足りないなら咲夜に伸ばしてもらえばいいと思ったが、肝心の私が世界に入門できない。誰だこんな素晴らしい魔法を使ったのは? 私だわ。
それはさておき、覚えてほしいことか。何だろう、自分がここにいたことだろうか。それなら余裕で何百年でも覚えておくが。もちろん魔法抜きで。いや、そもそも魔法にそんな用途のものないけど。
「魔法が使えるようになったら、私にディゾルブスペルを撃ち込んでください。どんなに私が拒否していても構いません、今の私の言葉を信じてください」
あら、もっと簡単なことじゃない。自分にもう一回ディゾルブスペルを撃ち込めとかだったらさすがに
「わかぅ、わかったわ。私は今の貴女を信頼する」
やべ、真面目なところで噛んだ。まあいいや、筋肉痛のせいにしよう。だから友達は選ぶ必要があるのね。特権を持った家族が口煩く言う理由が分かった気がする。
「……ありがとう、ございます」
というかどれにせよ、コアの言う通りの普通の小悪魔ではなくなる。インに何か変化があるなら、コアが面白がらないはずが無い。ああ見えて彼女は人によく気がつく悪魔なのだ。うーむ、本当に分からなくなってきたわね。
「……ありがとう、ございます。それでは、後ほどよろしくお願いします。それでは」
瞳にかすかな光を瞬かせ、インは深々と頭を下げてドアへと歩き出した。どこか急いでいるように、早歩きで向かっていく。
引き止めるべきか? レアケースだが、止めてほしくて急いでいるふりをしているという、最近本で読んだ可能性が頭にちらつく。あとたまに咲夜もやってる。残念ながらそれにレミィが気づく確率は九割程度だが。
無いか。それが成立するのは信頼があってこそ。会ったばかりも同然の私とインの間柄を、インがそこまで信じるだろうか。コアの方がまだ可能性があるわ。いやどうだろう、コアの構築する間柄はそんなタイプじゃない気がする。
そんな思考とともに、ドアが閉じられていく。
あ、言い忘れてることあった。
「イン!」
急に呼ばれ、インが肩を跳ねさせる。その彼女の輪郭はどこか掠れたような、思い詰めたような感じがした。え、ちょ、なにその輪郭。小説的表現とかじゃなくマジで掠れてブレてるんだけど。
まあいいや、後で説明してもらおう。それよりついでに頼みたい事があるのよ。
「――なん、でしょうか」
……
…
……
……えーっと。
「あなたがどんな200年を過ごしたか、私には分からないわ。けど、これだけ言わせて頂戴。」
……これだけじゃねえわ。間違えた。
「――よく頑張ったわ、イン。もう大丈夫よ」
「っ!」