それは深々と降り積もるような、ある夜のことだった。

寝る支度を終え、ベッドに入りそのまま一時間。寝返りを打っても、羊を数えても、あるいはストレッチをしてもまるっきり眠くない。
とうとう寝ることを諦め、鏡の前で顔を洗う。そこでふと気づくだろう。

鏡に映るその瞳が――自分のものではないことに。

「……私、昨日までは盲目だったよね?」

射干玉の長い黒髪を揺らし、少年が独り言ちる。
深夜の終わり際、その言葉に返すものは誰もいなかった。

翌朝。
結局一睡もしなかった。一歩歩くごとに体力が削れている幻覚を覚える。日頃の習慣を頼りに歩いていると、友人に出会った。

「よう、楢名ちゃん。朝から元気……ではないね」
「やっ、五良木君……よく見てるね、ふぁぁ……」

大きなあくびとともに顔を上げると、長い前髪が左右に滑り落ちる。
その隙間から、五良木はこちらの瞼を見た。昨日とは違う、丸みを帯びた瞼を。

「!? 楢名ちゃん、どうしたのその目!?」
「起きたらついてた」

あくびを止め、目を開く。
ありていに言えば、美しい目だ。朝日を受けてキラキラと黄金色に輝いている。
一方でその中心には、路地の陰を吸い込んだような深い黒を湛えている。
瞳孔は縦に長く引き伸ばされ、蛇を思わせるような鋭さをしていた。

「すげぇ……綺麗だ」
「おっ、口説き文句かい」
「いやいや、率直な感想だよ。こんなに綺麗な目は見たことない。そこらの蒲公英だって君の前では恥ずかしがって隠れてしまうだろう」
「どう聞いても口説いてるんだけど。誉め言葉のバリエーション偏りすぎでしょ」

五良木はその後も美辞麗句を並べ立てている。確かに、それだけの目ではある。昨日鏡で見た時、自分でもそう思った。
けれど、美しいのはその見た目だけだ。
持っている本人としては他の感想を述べるだろう。

例えば――「気持ち悪い」とか。

「褒めてくれるのは素直に嬉しいけどね。こっちは割と困ってるから複雑だよ」
「あぁ、確かに急に眼球が付いたら色々困るよな。洗顔とか」
「そうそう目を閉じる習慣がないから水がそのまま、って違うよ。もっと直接的に困ってるの」
「例えば?」
「見えないものが見えてる。……たぶん」

久々の視界。それは、それはもうカオスだった。
信号機が極彩色の壁に刺さり、地面は半分だけ板張りされ、行き交う人々は例外なく人外。機人、獣人、魚人、鬼人、その他もろもろ。空からは赤い糸が垂れ下がり、窓は蜘蛛の巣状の管と粘液が覆いつくしてらてらと光っている。
この世の物とは思えない光景に遭遇したが、よく考えたらよく分からない目を通して見ているんだからそれぐらいあるよな、と思った。

「視覚があるの久しぶりだから、自信ないんだけどねー。私が忘れてるだけで、案外こんなもんなのかな世界」
「何か見えてるにしては、いやに落ち着いてるなあ」
「別になんかされてるわけじゃないしね。ほら、この通り触っても大丈夫」

窓にペタペタと触る。管は人肌よりも少し温かく、そして時折脈動を伝えている。
粘液は表面だけを覆っているようで、その向こうには固くつるつるとした普通のガラスの感触があった。粘液が手にまとわりつくが、特に痺れや痛みを感じることは無い。ガラスの向こうに耳を澄ますと、床の軋みや洗面台の蛇口の音など、いつも通りの生活音が奏でられている。

一通り調べた後、五良木の方へ向き直った。彼は青ざめた顔で、こちらの手を見ている。ぽたりと手から垂れる粘液は、空気を閉じ込めて少し白くなっている。

「なななな、何その、何それ!? どっから出たのその粘液!?」
「えっ。見えてるの、これ?」
「うおお洗浄! 清拭! 消毒乾燥!」

五良木の鞄からペットボトル、ハンカチ、霧吹き、小型扇風機が飛び出たかと思うと、瞬く間に手が清潔になる。もはや粘液は地面に零れ落ちた二、三滴に姿を残すのみとなった。現実的には。

「おお、爪までキラキラ」
「後遺症は……なし。……ふう。楢名ちゃん、もう少し警戒心を持ってくれないかな。路傍の液体なんて何があるか知れたもんじゃないんだからさ」
「いやいや。触って大丈夫だから触ったんだよ。家じゃ問題なかったからね」

近づくな! 手を拭けぇ!」

放られたハンカチを受け取り、丁寧に手を拭く。その間、五良木は一定の距離を取りつつこちらをじっと見ながら身構えていた。警戒の構えだ。

「ねー、五良木君。そこの窓にはなんか見えるかい」
「何も見えないよ、単なる窓だ! だから怖いんだよ!」
「ふーん?」

触ったら実体化。最初に考えられる可能性だ。ただ、断定するには証拠が少ない。他のものも触ろうと、空から垂れる紐へ手を伸ばす。

「これはどうだい」
「え、何も見えないけど……」

しかし、その手は横から乱暴に掴まれた。そのまま路地へと引きずりこまれる。

「は、お、おい!?」

後ろから五良木が追いかける。未だ手を引き、路地を駆けていくその主は、