そんな昔の記憶に思いを馳せて十五分。二人は参道の入口に斜めに刺さった、立て札の前に立っていた。
 「ふーん、なになに、『超キケン!今スグ帰れ!』……なにこれ?字も汚いし。」
 「ふむ?」
 こころはおもむろに立て札を引っこ抜いた。
 「ちょっ!何やってるの!」
 「やっぱり、すぐ抜ける。よほど適当に刺したみたいだな。」
 立て札が刺さっていた地面は、とても浅くくぼんでいた。固定の工夫らしきものは無い。
 「んー?じゃあ悪戯かしら。でも山に立て札なんて、随分命知らずというか、なんというか」
 妖怪の山には天狗たちを主とする社会がある。この社会はとても保守的で、害あるものを全く容赦せず排斥する。麓には『いつまで経っても入山禁止』だなんて立て札があるくらいだ。
 そこに悪戯の立て札である。確かに書いていることはあながち間違ってもないが、人間からの評判は間違いなく悪くなることだろう。そして札を立てた者は厳しく罰せられるに違いない。
 もっとも、太陽の畑前の『ヘルズドア』よりマシな悪戯だが。ちなみに、それを立てた人間は現在行方不明だ。
 「かわいそうに……」
 「いやいや、立てたやつが始末されたって決まったわけじゃないから。それにしてもおかしいわね、こんな立て札、すぐに哨戒天狗が撤去するはずなのに。元々の入山規制の立て札も無いし」
 「……そんな暇もなかったのかもしれないぞ。一輪、耳をすませてみろ」
 「え?」
 言われるがまま、一輪は耳をすませた。
 すぐさま音が飛び込む。風、せせらぎ、木の葉の擦れる音。鳴き始めた蝉の声。幻想郷はすっかり夏になってしまったことを象徴する、風流な音の数々。最近得ることのなかった、心休まる一時……
 「………………フウ」
 「いや、ヒーリング効果を味わって欲しい訳では無いんだが。何かおかしくないか?」
 「えっ!?ああ、うん。……あれ?人の声が一つも聞こえない……?」
 比喩でも何でもなく、妖怪の山はいつも騒がしい。発明家の河童、新聞屋の天狗、守矢神社と揃っているから無理もないのだが、とにかくやかましい。まれに命蓮寺にまで爆発音が聞こえるほどだ。
 しかし、今日の山は不自然なまでに静かだった。河童の金槌の音も、天狗の噂も、守矢がやらかした声も何も聞こえない。あるのは自然が作る環境音だけ。まるで元の山に――八ヶ岳に戻ったかのように。
 「……これは、一体」
 「興味が湧くな。そう思わないか?」
 「……いや、思わないわよ。私のカンが言っているわ。この先に行ってはならないって」
 「そうか。」
 こころは一度うなずいて、そして山へと歩きだした。
 「ちょっ、待って!少しは私のカンを信じなさいよ!」
 「おいおい一輪、目的を忘れたのか?私たちは面を売りに来たんだ。麓に風を味わいに来た訳では無い」
 「スリルを求めに来たわけでもないのよ!この山、何かが起きてる!今行くのは危険だってば!」
 一輪がこころの服をつかむ。しかしこころはすぐにそれを振り払い、再び山へと歩を進める。
 「伸びる」
 「待ちなさいってのに!」
 だが一輪も諦めずに、こんどは肩を掴んだ。
 行かせるわけにはいかなかった。音が無い。立て札が無い。何より、山の入口で騒いでいるのに、哨戒天狗の一匹すら来ない。用心深い一輪に、最悪の事態が頭をよぎる。
 「……ふむ」
 こころは、今度は腕を振り払わなかった。代わりに手を掴み、振り返る。
 「ならば、」
 「――っ!」
 一輪は押し黙った。
 命蓮寺で最も敬虔な尼僧、雲居一輪。それはそのまま命蓮寺の教えに最も忠実であることを示す。
 すなわち弱きを助け、強きをくじき、人妖平等の世界を目指す。遠い理想だが、決して諦めず、それにたどり着く努力なら、どんなに小さくても惜しまない。それが雲居一輪という尼僧だ。
 だからこそ、目の前で困っている人を見かければ助けずにはいられない。それがたとえ、苦手意識を持つ天狗であっても。
 「痛い所つくわね……本当、誰に似たんだか」
 「くくく、誰だろうな。さて、私は行くが、お前はどうする?」
 「……行くわよ。もともとお目付け役だし。その代わり、危ないと思ったらすぐ帰るのよ?」
 「一考の余地あり」
 「すぐ帰ってよ!?」
 そして、ふたりは山へと入っていった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 彼女達が登った参道の近く、人目につかない木と草の中。
 
 廃材となった元立て札の上に、幻想郷で見慣れない河童の発明品が落ちていた。
 
 それは、ほとんど壊れていたものの、小さく声を発していた。
 
 『これは自動放送です。山に侵略者あり。既に山の戦闘員は全滅いたしました。また、侵略者は人里に下りる可能性があります。この放送を聞いた動ける方は、速やかに人里にお伝え下さい。繰り返します。山に、侵略者あり――』

 「決まってる。私の今の感情だ。これが私のこころだ」

 
 
 こころはその面を、一輪に突き付けた。
 一輪が死んだ目でそれを覗きこむ。ただ一度見ただけでは、よくあるただのお面、夜店でも普通に売っている面にしか見えない。
 しかしこのお面は、それらとは違う。
 「……これは……うーん。私は詳しくはないからわかんないけれど、