「……」
冷や汗だらだら。思考は真っ白。歩く姿は傀儡人形。
けれど私は考えていた。
現在、私はとりあえずあの来訪者に近づいている。
自慢じゃないが、私は目がいい。召使い時代に遠くを飛んでいる鳥の種類を言い当てたこともある。
だからこそ、見間違いようもなかった。黒いぼさぼさに所々白色の束が交じった髪。その髪に交じって、彼の頭に二つの鋭い出っ張りがあることを。
月の都の民は数いれど、その殆どは兎、神、もしくはそれに近しい者達だ。角の生えた者など噂にすら聞いたことがない。
つまり、目の前で倒れているあの者は間違いなく侵略者――地上人なのだ。本来なら月の都に通報し、しかるべき処断を受けさせなければならない。
そう、頭では理解している。わざわざ穢れる危険を犯してまで近づく必要などないことに。理解しているのだ、が。
「……えーっと、生きてる、の?」
私は近くに座り込み、地上人に話しかけた。
「……」
「それとも、寝てるだけ?」
「……」
返事がない。もしかして、手遅れだった?
「……おーい、もう朝だよー。」
「…ヒュ-」
「!」
返事はないが、息の音が聞こえた。
間違いない。彼はまだ生きている。
――だからといって、どうするべきかはまったく検討もつかないが。
月に来た地上人の措置はいくつかある。一応正式には月の都に届け出するよう言われてはいるが、その手続きは案外めんどくさい。
なので即断で殺害したり、デモンストレーション用に使ったり、様子を見てどこまで気づくか地上を試したりする。
だが、最もポピュラーな方法は、綿月家に頼んで地上に送り返すことだ。
地上の民は穢れをふんだんに含むため、迂闊に接触するのは少々まずい。
だから穢れを祓える神降ろしの能力と、月と地上をつなぐ能力の二つを持つ綿月の家に頼み、地上の民が穢れを振りまく前に地上にさっさと送り返す。それが穢れを嫌う大多数の月人の選択だ。
もちろん私もそうした。これで明日も平和だ。
私もそうしただろう。純粋な月人だったならば、だが。
そう、私は純粋な月人ではない。ハーフ、というわけでもないが、月の神と地上の神の間、微妙なところに私はいる。それも私に対する視線の原因の一つだ。
要はほかの月人よりも地上に近い存在のため、ついつい地上に肩入れしてしまう。私の悪い癖だ。
しかし、分かっていて直せるならそれは癖ではない。現にこうやって地上人に話しかけているのが何よりの証拠である。
それでも、話しかけるだけで済むならただの癖でいいのだが。もしも私が今からやることを月人の誰かが知れば、処刑待ったなしである。
……大丈夫だよね?
「えっと、動けるかな?」
「……」
「いや、無理か。ならやっぱりどこかで体力を回復させないとだけど……」
私は辺りを見回した。助けを求めるためではなく、周囲に誰もいないことを確認する。
「……しょうがないかなあ。カモン!ドレ……あだっ!」
「気安く呼ばないでください。友人ですか貴女は。」
叫ぼうとした私の鼻に、分厚い本がヒットする。どこからともなく現れた彼女は、本を片手に、いつもと変わらない目で私を見つめていた。
「うう、でも私が頼れるのなんてあなたくらいだもの」
鼻を押さえながら彼女を見つめる。
突然その場所に現れた彼女。名をドレミー・スイートという。私がこの月に来る時にお世話になった妖怪だ。
さすがに神と言えど月まで飛ぶのは難しいだろうと、月の都が派遣した立派な公認の妖怪である。
だから立場は私の方が上ではあるのだが、この妖怪、まったく私を敬わない。だからこそ友人なのだが。
月に向かう最中に話しかけたら、案外面白い妖怪だったので、今では私の一番の友人だ。
え?二番目?……秘密だ。
「月人の友人を作ってください。私は忙しいんです」
「神コミュニティでもハブられる私にどうしろと」
「そこで引くからダメなんですよ。貴女は自分の名も忘れたのですか。で、何の用ですか」
「もう少し優しくならないの、貴女。用件はね、うん、えーっと」
そこまで言って、詰まった。
わりと考え無しに呼んだが、彼女は月の公認妖怪だ。月と近しい考え――例えば、地上人の粛清などを考えていてもおかしくはない。そうだったら私の考えていることは実行できない。
……どうしよう。
「はっきり言って下さい。言いにくいとか言われても知りません」
けれどドレミーは待たない。足を踏み鳴らしながらまっすぐこちらを見つめてくる。まるでこちらを見透かすように。
「ううう、そこの子を……」
私は早々に折れて、地上人を指さした。
「は?……え?こいつ……」
「そこの子を――」
「助けて、欲しいの。」