知識を求め人里の鈴奈庵へ。そこで手に取った、紅霧異変について記した書物。
 大した理由はない。自分の好きな色が赤だった、というだけの話だ。
 だがその本にほんの僅かな違和感を感じた。異変解決者、博麗霊夢、楽園の素敵な巫女。霧雨魔理沙、普通の魔法使い。その横に、紅霧異変の概要。
 その解決者の名前と概要の間は、不思議と大きく開いていた。
 読みやすくするための空白だ、そう言ってしまえば終わりだろう。けれど疑問が降って湧いたのだ。それなら私は、疑問を解決しなければ気が済まない。そんな妖怪だった。
 私は試しに、科学の視点で解析を試みた。そこに何があったのか。何故消されたのか。するとそこには薄くもう一人、異変解決者の名があった。
 『冴月 麟  』
 それが全部の始まり。

 かすれて消えかけていた名前が、何故だろうか、私は酷く気になった。
 きっとそれは、親近感だったのかもしれない。
 名前を持たずに叩き上げた私と、名前だけを残して消えてしまった彼、ないし彼女。
 正反対で、ある意味近かったからこそ、私は惹かれたのだ。今となってはそう思う。
 紅霧異変について、私はもっと知りたくなった。直接解決者に話を聞きに行ったりもした。
 だが博麗霊夢も霧雨魔理沙も、そんな名は聞いたことが無いという。紅魔館や面々、稗田の御阿礼の子、それどころか偶然出会った八雲紫にも聞いたが、結果は同じ、覚えがないという事だった。
 これは歴史の専門家に聞くしかないか?そう思って白澤の家へ向かう途中に、私は思いついた。
 そうだ、なにも他人に聞く必要はない。
 主観交じりの意見より、もっともっと真に迫る方法がある。
 当人に聞けばいいのだ。

 幻想郷には無数の魔術がある。その中には死んだ者を生き返らせる秘術も存在する。
 だが秘術という名は伊達ではなく、習得するには早くて百年はかかる。いくら趣味に走る私でも、そんな非効率なことはしない。そもそも死んだかどうかさえわからないのだ。
 話さえ聞ければいい。その名前に込められた記憶さえ、取り出せれば。
 私はまず、アリス・マーガトロイドに話をつけた。オートマトンを一体、原寸大の大きさで。代わりに上質な蜘蛛の糸を。
 次にパチュリー・ノーレッジの元へ向かい、希望を満たす魔術を見繕ってもらう。代わりに高級な月の石を。
 最後に、霧雨魔理沙にその魔法を使わせる。彼女は報酬はいらないと断った。見たことない魔法を使えることが報酬だ、と。
 つくづく人間は甘い。私が彼女を呼んだ理由は、たとえ重要情報が出たとしても、私なら人間一人程度、情報統制は容易いから。ただそれだけなのだが。 
 そうして私の研究室に用意されたのは、名前に込められた記憶を、オートマトンを介し音声として再生させる魔術の起動環境。
 しかも、これは死者の魂の冒涜にもならない。これは名前に付随する記憶を音声に変えるだけの術式であり、魂を彼岸から引っ張ってくるものではないからだ。
 
 仮に失敗したとしても、死者蘇生よりかは遥かに楽な術式、らしいので原因はすぐ見つかるはずだろう。
 完璧な作戦だ。そう、そのはずだった。
 なのに、どうして。
 どうして、彼女は、動いているのか――?

 目覚めた彼女は、酷く困惑していた。無理もない。
 なにせ作ってもらったオートマトンは、動かすことなど想定していない。あくまで形だけなのだ。目や眉や首は動かず、関節は両肩両脚だけの四カ所。
 しかしそれでも彼女は動いた。何故なのか、それは全て彼女が教えてくれた。それは、到底信じられるものではない話。
 彼女は誰よりも早く、異変を解決しに行ったらしい。闇の妖怪を薙ぎ払い、氷の妖精を下し、門番を破り、魔女を崩し、従者に辛くも勝利して、あの紅魔の主に打ち勝った。
 だがまさに主と決着をつけようとした瞬間、彼女は突然墜落したらしい。
 身体のすべてが支えを失ったようだったという。飛ぶ力も着地する力も失い、ただ空しく落ちていく彼女の瞳に映った、七色の羽。
 そして彼女は、血だまりに横たわった。

 目覚めた頃には、何もかもを失っていた。
 人々は他人を讃え、異変の解決者には知らぬ名が踊っている。
 当の自らは姿を無くし、本にかすれた名前が載るのみ。所謂妖魔本と成り果てていた。
 そしてその本としての力も、次第に薄れて行く。
 当然だ。人間にしろ妖怪にしろ、誰かに覚えてもらうことが力の源なのだから。本に封じられたことすら忘れられた彼女は、自身を保つだけで精一杯だっただろう。
 そうして何十年か経った頃に、私がその記述を見つけ、今に至る。

 要は名前そのものが魂の妖怪だから、名前をつけた物に全て宿った、ということらしい。
 しかし私は、どこも信じられなかった。妖怪の妄言、いや、ただの騙りかとすら思った。実際、霧雨魔理沙はそう思っていた。
 まず、紅霧異変はそれほど昔の話ではない。何十年ではなく、よくて十何年。それどころか、二桁にすら満たないかもしれない。あまり外に出ないので正確にはわからないが。
 次に、起きたことがあまりにも不可解だ。
 話を信じるなら、霊夢や魔理沙より早く紅魔館に向かい、池を荒らし紅魔館を喰らい、七色の羽――おそらくフランドールだろう――に『破壊』された、ということだろう。
 それだけのことをしておいて、なぜ全く誰も覚えていないのか。八雲紫あたりは知らないふりをしているかもしれないが、やられた本人であるレミリア達にふりをする理由は無いはずだ。
 まるで彼女らが麟を庇っているかのような。
 いや、全て『なかったこと』になっているかのような――?

 私は研究室を飛び出した。目覚めたばかりの麟の監視を、魔理沙に押し付けて。
 あった事実を、なかったことにする。幻想郷でもそんなことができる者は多くない。全てありのまま受け入れるのが幻想郷だからだ。
 それでもどうしても受け入れられない者は、八雲が秘密裏に処理する。だがあの八雲に限って、名前が大きな力を持つことを知る賢者に限って、名前だけを残すだなんてことをするだろうか。先に名前を奪うはずだ。
 ならば、誰がこんなことをするのか。
 いや、理由は後だ。
 こんなことができるのは他に誰が居る?
 私はドアを開いた。
 「おや、お久しぶりですね、みとりさん。寺子屋に何か御用ですか?」

 全てを伝えると、上白沢慧音はいつになく焦り始めた。
 彼女が?そんな、歴史は根本から食ったはず。なぜ、今になって?
 そんな困惑する彼女を横目に、私はただ興奮していた。
 ようやく麟を知っている者を見つけたのだ。しかもこの動揺ぶり、彼女の現状に関わっているに違いない。私は疑問をぶつけた。
 どうして、冴月麟を消したのですか?
 「……その前に、ひとつ聞かせてくれ。お前はその話を聞いてどうする?単なる興味で首を突っ込むには、手に余る話だぞ」
 私は顎に手をやった。
 この疑問に応えるのは容易い。始まりが単なる興味なのだから、今もそうだと答えればいい。河童は水かきの分多く持てるだの、首が回らなくなるわけでないなら大丈夫だの、少しひねくれた回答をしても良い。だけどそのどれもが、私には合わない。
 私は幻想少女ではないのだから。ただ、こう言えばいい。
 
 「誰でも自分の未来は知りたくなるものですよ」

 ……私の意志だ。時間は残されていなかった。壊された体を捨てなければ、それこそ魂もすぐに消滅しただろう。
 体を戻すことは、どうしても出来なかった。
 その通りだ。あの吸血鬼に破壊されても生きている者などこの世にもあの世にも存在しない。
 だから彼女を、名前だけの存在にしたと?
 そうさ。名前を破壊することは、あの頃の吸血鬼には叶わなかったようだからな。
 なるほど。彼女を消した理由はわかりました。ではもうひとつ。
 「ならばどうして、冴月麟のすべての歴史を食べたのですか?」
 そう聞くと、慧音は押し黙った。
 
 生かすために体を捨てさせた。他にしようはなかった。それを否定するつもりはない。むしろ破壊の吸血鬼の能力をくらっても生かしたのだから、最上の名医と讃えてもいいほどだ。
 だが、その先は?
 人に恐れられるものが妖怪。それが恐れられなくなれば。
 人に知れ渡るのが強い妖怪。それが、知られることさえなくなったら。
 誰かが忘れたから、私達は幻想郷で覚えられている。それが、幻想郷の人間ですら、思い出す事もしなくなったとするなら、それは――
 
 ――私は、ここに来たばかりの頃を思い出していた。
 何も知らず、何もわからず、ただ灼熱地獄の隅で、ドロドロと溶け出す岩をずっと眺め続ける日々。
 行くところはない。そもそも、ここに外があると思っていない。暇も穀も潰しきり、いっそ自分を潰せはしないか。そう考えながらも、潰す方法なんて考えつかず、また視線を岩に向けた。
 そうして眺め眺めて眺めながら眺めやまず眺めやり眺めして眺めくる眺めを眺めに眺め続け――
 『あなたは……ほう、なるほど。とりあえず、こちらにいらっしゃい。お茶ぐらいは出しましょう。』
 熱で揺らめく獄牢に、そんな影が見えた。
 
 そんなことすら、許されない。
 紙一枚に己を預け、埃を帽子の代わりにし。
 何を知って何をわかっていても、何も出来ないままそこに居続ける。
 ――上白沢慧音は、それを選ばせたのだ。到底許されはしない。許しはしない。
 「麟を生かすなら、すべてを奪う必要はなかった。答えてください、慧音さん。どうして何もかもを消す必要が?」
 私は語気を強めた。だがなじるふうに話さないよう、気をつける。
 まだ理由を聞いていない。もしかしたらやむにやまれぬ事情があるやもしれないのだ。幻想少女でない私は、感情のまま動くわけにはいかない。それが私の、河城みとりとしての矜持である。
 「……冴月麟本人に話を聞いた、と言ったな」
 慧音が口を開く。
 「ええ。まさか、彼女が嘘を言っていると言うつもりで?まあ、それも有り得なくはありませんが。年数が合わない理由はまだ分かりませんしね」
 「彼女は、その日の天気は何だと言っていた?」
 「天気?満月の綺麗な夜だと言っていましたよ。全力の吸血鬼に打ち勝ったと。」
 「ああ、そうか、そうか。それなら嘘はついていないさ。」
 ……一体彼女は何を言いたいのだろう?天気になんの関係があるというのか。紅霧異変は確かに赤い霧が出た異変だが……
 ……霧?
 「……まさか、その夜は」
 「ああ、そうだ。」
 慧音はひと呼吸おいて、言った。
 「その日は、霧も雲も一つない晴天だった。」
 
 冴月麟は優しかった。
 どこかで悩む者がいるなら、すぐに飛んでいき悩みを解決する。博麗の巫女よりもよほど巫女らしい妖怪と評判だったという。
 だから今代の巫女、博麗霊夢もだらけていたのだが、それはさておき。
 冴月麟は優秀だった。
 幻想郷はたまに世界自体を揺るがすような異常事態が起きている。けれど冴月麟が覚えられていた頃は、そんな事態は一件もなかった。
 簡単である。起こる前に止めていたのだ。大事件を起こしそうなフラストレーションのたまった妖怪の元へ行き、解決策を提示する。その時も決して手は出さず、ただ話し合いだけで双方を納得させたのだという。
 スペルカードルール制定のきっかけとなったあの吸血鬼異変ですら、本当は無かったものだというのだ。それでも紅霧異変を始めるあたり、さすがレミリアだが。
 冴月麟は強かった。
 冴月麟は理想的だった。
 ――ただ一つ、冴月麟は幻想的でなかった。

 「そう、紅霧異変が始まる前に、麟はそれを察知して紅魔館に行ったんだ。悩んでいる者を放っておくことは出来ない、そう言ってな。」
 闇の妖怪の弾幕をかいくぐり、次へ向かう。自身は一発も弾を撃たずに。
 「だが麟は人の悩みの解決を気にするあまり、その原因までは知ろうとしなかった。過去を気にせず未来を考える。麟は、現在が見えていなかった」
 弾幕を展開する氷の妖精に近づき、弾を食らうのも気にせず頭を撫でて一言。『また今度、遊んであげる』。
 紅い館の門番と討論し、一時間かけて説き伏せ門を開けさせる。やはりあなたには敵わない、そんな言葉を背に受けて。
 「……妖怪は恐れに生きるものだ。何もかも会話で納得されたら、これほど不愉快な事はない。お前で言うならそうだな、『発明品は要らない』『今ので間に合っている』。そう言われ続ける、と言えば近いか」
 四方八方、図書館を埋め尽くす魔法の波。
 その一切を彼女は気に留めず、未来の元凶の居場所を聞き出す。
 八方十六方、廊下を舐め尽くしたナイフの嵐。
 それの中にいて、彼女は不思議にも傷ひとつない。
 そして彼女は一方を見つめる。
 紅い館の、異変の主を。
 「もちろん、彼女を亡き者にしようと考える者は多かった。まだルールは定まっていなかったのもあって、妖怪が一匹消えたとしても何かの事故としか思われない。あの頃は、よくある話だったしな」
 「なのに麟は、麟の言葉を信じるならですが、紅魔館に行くまで亡くなることはなかった」
 「そうだ。だが、決して彼女が戦いに秀でていたわけではない」
 「なら、どうして?」
 紅く幼い異変の主は、無慈悲にも彼女にその鋭い爪を振りおろし――
 「その不文律を突き通す力を、彼女が持っていたからだ。だから私はそれを恐れ、彼女のすべてを消すことを決意した」
 「……それは、一体」
 「知っているだろう」
 彼女が口を開く。

 『冴月麟の表皮は、硬い鱗である』
 ――爪が弾かれた、高い音がした。

 「『名前を操る程度の能力』。物を名付け、その性質を決めつける力だ」
 
 
 名前は、そのものの性質の始まりである。
 それに付随する性質が良いものであればものも良くなり、悪いものであればものは悪くなる。
 だから人の名前に関する習慣は枚挙に暇がない。諱、諡、仮名、字、戒名、洗礼名、号、筆名、レサク、ラカブ、言霊、呪詛、苗字……少しでも良い性質を与えてやろうと、聖人の名にあやかったり、自らの親族の名を与えたり。名前を呼ぶのはその人のすべてを握る事だと、本当の名前を隠す習慣すらあった。名前にはその人のアイデンティティすらも宿るのだ。
 なればこそ、適当な名前を付けることなど許されない。
 
 それを勝手に決め付ける力。
 あまりにも無慈悲で残酷で絶対的な力。
 それは、まるで――
 「なるほど。まるで全能神ですね」
 「ああ。そして、あらゆる全てに効く恐ろしい力だ」
 どれだけ善良でも。
 どれだけ努力をしても。
 どれだけ皆の事を考えていたとしても。
 彼女は、消されて当然だったのだ。
「彼女は、妖怪からは不興を買い、人間からは感謝され、何もかもを変えてしまえる力を持った妖怪だ」
「博麗の巫女が退治すれば、その評判は地に落ちる」
 慧音は小さく頷いた。
「妖怪が殺そうにも、下は絆され、上はその全能の力を万が一にも受けたくない。そもそも、そう企んだ時点で彼女は来る」
「だから、彼女とはまだ繋がりの薄い、レミリア達を利用した」
 今度は、頷かなかった。
 代わりに、短い沈黙が訪れる。
「……不意を打ち、一撃で終わらせる力を持った、まだ麟が把握していない人物。フランドールをおいて他にはいなかった。彼女が破壊し、私が痕跡を消す。その手筈だった」
「……その言い方」
「ああ。初めから、麟は消すつもりだった」
 思考が白く染まる。
 意識が消える。
 気づけば、私は上白沢慧音の胸ぐらを掴んでいた。