『斯く斯く、如く如く、私は落ちて生まれたもので』
人気の無い路地。表通りに浮かぶホログラフィも、アクリルのように透明な階段板も、ここには無く。ただ「壁」との距離が欲しかったのだろうと、そう思わせるほど無造作に無機質な金属板で覆われている。
それでも掃除だけは行き届き、塵は積もれどゴミは無く。薄暗さに寒々しさのみ入り混じり。
それを文字が、裁ち分ける。
『ある』
そう認識した頃には、「それ」が金属板を剪断していた。作られてから数千年。その板にとって初めての人を乗せた日は、そのまま自らの命日となった。
大きく上へ圧し曲がった板の中心で、それは自らの首を地面から引き抜く。黒い髪に、滴る赤い血、黒い左前の浴衣に、淡い黄色の腰帯。裸足で板の慣れ果てを踏みしめる。
その足元に落ちている、鍔広の黒いトリコーン。クラウンからは銃創のように円く抉れた黒い角が生えており、その根本には白のリボンが巻いてある。
それはその帽子を拾い、ぱっと埃を払って被り直した。崩れた『ある』の黒粒が、辺り一面にざらざらと降りしきる。
『痛い 死ぬ 否 死んでる 思う?』
「何の音――う、うわあああぁぁぁ!!? 怪我人、大怪我、わあぁぁぁああ!!!」
しかし、黒粒の中心にそれは居なかった。困惑気味に辺りをザワザワ動く黒粒。後から降ってくる『もので』。
それを余所に、いつの間にか大通りに移動したそれは、一掴みの黒粒で最低限の文字を作り、近場に居た男に絡んでいた。
血がべっとり付いた手で、ゆったりとした紺のローブ風ワンピースの裾を引っ張られ、止められている焦茶髪の男。近年稀に見る何も羨ましくない状況だった。
『その様子、助かったようですね。どうもご貴人。ご教授助かりました』
「うひゃあああ!? 通り、黒、何っ!? 助かっ、何が!? とっ、とにかく二条さんを呼んで……いや、その前に応急処置……!?」
「やや! 見つけましたよ、六角さ、まぁぁぁああああ!? 襲い、襲われ、血っ、頭っ!」
ようやく追いついた黒粒たちが、統制の取れた動きで文章を作る。男を追いかけてきた、男と同じ装いで色だけ若草色の女が、それを見て悲鳴を上げる。
「きっ、救護班! 六角さまの横の人物を治療せよ!」
女は必死で悲鳴を飲み込むと、場馴れした様子で指示を出し始めた。やがて女の後ろから追いついてきた白衣たちが、息を切らせながらも麻酔銃を構える。
『? 騒々しい。注射器は武器じゃない、ブレイバー』
「っ、六角さま、こちらに! 総員、保護っ!」
女の合図で、一斉にそれに針が飛ぶ。目や口を傷つけないようにと、手や鎖骨や足を狙った致睡の十五撃。一発食らえばこの場は当然、全てを受ければ三十日分の食費が浮くであろう針が、今、それの肌を貫く――
『悪い。親切心には撤退だ』
「なっ……避けた!?」
――ことはなかった。針の刺さる刹那、黒粒が手足を取り、それを空中へ放り投げる。その拍子に、血の雫が周りに飛び散り、表路地を斑に染める。着地点で待っていた黒粒の塊がそれを受け止め、ざわざわと路地の角へ消えていく。
『生きている。即ち、十分だ。また会いたい』
「礼の問題ではない! 患者は怪我を治さなければいかんのだ! おい、待て、黒いの! 病院へ向かえっ!」
「追うな來原! 六角様を優先しろ!」
白衣たちのいざこざを背に、黒粒はみるみるうちに離れていき、やがて姿を消す。残されたのは、
「はふっ……」
「確保っ! 急いで艇教病院へ運びなさい! 私と六角さまは教会へ!」
「はっ、はい! ……んっ?」
ぺたりと、それは石畳に座り込んだ。すかさず白衣たちが距離を詰め、崩れ落ちていくそれの体を支える。
白衣の一人が、持っていた桐箱を開く。まずは白無垢の包帯を取り出し、そして応急処置のために帽子を外す。
「……! これは……!?」
「何をしている、早く処置を!」
「あ、あぁ……分かっている!」
包帯を巻く、針を抜く、担架を組み立てる、ホバー・ビークルを手配する、ビークル内で緊急治療の準備をする、それら全てを端末に記録する。白衣たちに誰一人、手の空いている者はいなかった。
「よし、運んでくれ!」
『親切だ。だからこそ、恩に着る』
その隙へ、黒粒が入り込む。
「ぐっ!」
「何だ!?」
「これは……虫!?」
『それは違う。ただし、害はない』
粒は塊になり、白衣たちを次々に拘束していく。一人。二人。十一人。瞬く間に白衣たちが全滅する。フリーになった主を塊が抱きとめ、何処かへ運んでいく。
『血が止まれば十分だ。お礼はひとまずツケを希望する』
「礼の問題ではない! 患者はまだ絶対安静だ! おい、待て、黒いの! 病院へ向かえっ!」
『失礼しました』
それを取り込んだ塊が、角を曲がって消えていく。塊が離れるにつれ、拘束している黒粒たちも薄くなっていき、程なくして白衣たちは解放された。